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[第一次世界大戦の勃発] 第1次世界大戦の直接の原因、サライェヴォ事件は、あまりにも人口に膾炙しているが、その裏には、哀しい夫婦の物語が…。 オーストリア帝国の事実上のラストエンペラー・フランツヨーゼフ1世には、れっきとした皇太子がいた。 しかし、デキの悪い皇太子はマイアーリンク事件により死去、帝位継承権は甥のフランツフェルディナントの手に渡る。 とはいえ、この甥もまた、重大な問題を抱えており、皇帝と甥の確執は深刻化していく。 この2人の確執が悲劇の導火線となっていくのだが、はたして…。
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[大戦直前における各国の思惑] サライェヴォ事件後、ヨーロッパ情勢は風雲急を告げる! 20世紀初頭、ヨーロッパに存在する“帝国”は、独・墺・露の3つだけだったが、その3人の皇帝が3人とも暗君であったことは、悲劇に滑車をかけることになった。 事の重大性にまったく気づかなかった独帝ヴィルヘルム2世が、クルージングに夢中になっている間に、歴史は想像を絶する展開をしていく。 彼が自分の置かれた状況に気づいたときには、すでに、帝国を滅ぼすことになる戦争は始まってしまっていた。 無能なリーダーに率いられた組織はいつも悲惨である。
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[第一次世界大戦参戦諸国] あれよあれよ、という間に、ヨーロッパ中を巻き込み、世界をも巻き込んでいく第一次世界大戦はこうして勃発した!
ヨーロッパ諸国は、こたびの戦争に、どう立ち回ったのか。 同盟側についたのか、協商側についたのか、中立を守ったのか、守れなかったのか。 このページでは、ヨーロッパ諸国の対応を達観する。
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[シュリーフェン計画] 第一次世界大戦でのドイツの敗因は、シュリーフェン計画の失敗にある、と巷間よく言われる。 では、シュリーフェン計画とは、いかなる計画であったか。 その失敗の原因はどこにあったのか。 そもそも、ほんとうにシュリーフェン計画の失敗が原因なのか。 失敗原因の究明は、貴重な人生訓となる。
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[1914年の西部戦線] “叔父の七光り”で参謀総長の地位にまで出世したモルトケ。 しかし、無能な者が人の上に立つということほど罪深く、また悲劇はない。 おのれの器を越えた高い地位を得ることは、一見、羨ましいようで、じつは悲劇である。 その人にとっても、その下々の者にとっても。 無能モルトケにとって、戦時下の参謀総長の地位はあまりにも重荷すぎた。 彼は、その重圧に耐えかね、たちまち精神を蝕まれていくことになるが…。
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[1914年の東部戦線] 西部戦線での膠着化とは対照的に、東部戦線ではルーデンドルフ・ヒンデンブルクのコンビが大活躍、その戦果はめざましいものがあった。 しかし、勝敗というものは、戦術的な勝利をどれだけ重ねたところで、戦略的に負ければ意味がない。 項羽と劉邦の戦闘がよい例である。 東部戦線でのドイツの優勢など、“総力戦”という今まで経験したことのない戦争の前にはまったく無意味だった。 「国民の戦争は国王の戦争より怖ろしい」とは、かのW.チャーチルの言葉。 チャーチルは、大戦が勃発する13年も前に、すでに“総力戦”の恐ろしさを看破していた。
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[オスマン参戦@] 長期化の様相を呈してきた戦争を勝ち抜くためには、是が非でもオスマンを味方につける必要がドイツにはあった。 イギリスに海上封鎖をされて、経済的苦境に立たされたドイツが、一気に形勢を逆転、英露の補給路を断つと同時に、自国の補給路を確保するためには、オスマンを味方につけるしかなかったのである。 かたや、オスマン側では、ロシアにつくか、フランスにつくか、ドイツにつくかで揺れに揺れていた。 オスマンを自陣営に組み込むことに成功したのは、ドイツか、協商側か。
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[オスマン参戦A] 依違逡巡のオスマンに業を煮やすドイツ。 ついに、ドイツ巡洋艦ゲーベンがダーダネルス・ボスフォラス両海峡を強行突破する! イギリスはこれに抗議と懐柔をもって臨む。 それでも、最後の最後まで揺れるオスマンに、とうとうドイツは実力行使に至る。 その“実力行使”とは?
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[1914年の極東戦線] 日露戦争の大勝利に沸き返ったのも束の間、戦後、帝国日本は膨大な戦債赤字と貿易赤字を前に、破産寸前であった。 「もはや打つ手なし!」 そこまで追い込まれていた日本に、降って湧いたように勃発した第一次世界大戦! 井上馨元帥をして「こたびの欧州大戦は大勝新時代の天佑(神の助け)である!」と言わしめた幸運! 「これに乗らぬ手はない!」と、日本もただちに参戦するが、これが第二次世界大戦の序曲となろうとは、このとき、誰も予想できなかった…。
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[1915年の西部戦線] 塹壕戦による膠着化は、新兵器開発を促すことになった。 毒ガス・戦車・戦闘機・爆撃機・潜水艦…。 いつの時代も、技術革新は、戦争という惨劇の中から育まれてきた。 ちなみに、毒ガスを開発したフリッツハーバーは、空気から火薬を生成する製法も発明しているが、この製法のために開発した“空中窒素固定法”でノーベル賞を受賞している。 毒ガスで大量無差別殺戮に貢献した科学者がノーベル賞受賞。 皮肉な結果ではある。
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[1915年の参戦状況] イタリアいまだ参戦せず! 独墺伊三国同盟があったにもかかわらず、イタリアは動かない。 独墺の参戦要請は拒否されつづける。 その一方で、裏工作に奔走した英仏は、イタリアに三国同盟を破棄させることに成功。 これで、イタリアまで味方につけ、連合国側は意気盛ん…となるハズであったが…。 しかし、この密約は、戦中戦後、のちのちまで英仏を苦しめることになる。
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[1915〜16年の海戦] ドイツ起死回生の拠は海上にあり! ドイツがジリ貧なのは、イギリスによる海上封鎖が原因であることは明らか。 制海権を打破する以外に逆転の道はない! 幸い、イギリスすら保有していない新兵器、世界唯一の潜水艦Uボートもある! しかし、哀しいかな、新兵器に欠陥は付き物といってよい。 イギリスのマーク1しかり。 Uボートもまた例外ではなかった。 そこで、ドイツは、正面突破の挙に出、海上帝国イギリスを敵に、戦術的勝利を果たしたにもかかわらず、ドイツはいよいよ追い込まれていく…。
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[1916年の西部戦線] 「もはや勝ちはない。」 そう悟ったドイツは、少しでも有利な講和を結ぶべくヴェルダンに軍を投入。 ヴェルダン攻防に忙殺されるフランス。 対するイギリスは、ソンムに軍を結集させる。 大戦最大の会戦、ヴェルダン要塞攻防戦とソンムの会戦は、こうして、ドイツが敗戦を覚悟したあとに幕を開けたのである。 そして、それは、百万単位の死傷者と、“帝国滅亡”という、ドイツにとって最悪のシナリオへ驀進していく結果となった。
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[1916年の東部戦線] 西部戦線で、悲惨な消耗戦、ヴェルダン要塞攻防戦が繰り広げられていたころ、東部戦線では、ブルシロフ攻勢が始まった! さらに、その直後には、ソンムの会戦が勃発。 挟撃状態のドイツに、ルーマニアの対墺参戦の報が届く。 これを聞いたドイツ皇帝は嘆息した。 「これで戦争に負けた。」 ところが、皇帝の言葉とは裏腹に、その後、東部戦線は快進撃! いったい、何があったのか……?
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[1917年の転機@] 焦るドイツは、軍隊の暴走が始まる。 政府(ベートマン首相)は、アメリカの参戦を畏れ、無制限潜水艦作戦の再開に反対するも、軍部(ルーデンドルフ参謀次長)は、これを強力に推し進めようとする。 「アメリカが参戦したところで取るに足らないだろう!」 もはや、ルーデンドルフに理屈は通じなくなっていた。 太平洋戦争中の旧日本軍しかり、戦況が悪化すると、軍部が暴走するのは、いつの時代も同じである。 そのとき、外相ツィンメルマンは、別の一手を狙っていたが…。
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[1917年の転機A] ベートマン首相がその参戦を畏れたアメリカ合衆国は伝統的に中立主義。 ウィルソン大統領も、当初、この伝統国策を踏襲するべく宣言し、再選を果たす。しかし、時代がそれを許さない。 世界の国際情勢が、アメリカを戦争に巻き込もうとする。 世論の急速な右傾化の中にあっても、ウィルソン大統領にはどうしても参戦できない事情があった。 果たして、その事情とは…? アメリカの参戦はいかにしてなされるのか…?
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[1918年上半期ドイツ最終攻勢] ロシアでは、十一月革命が成功(詳しくは第2回配本にて)! ロマノフ朝を滅ぼした新政府は、ドイツとの和平交渉に乗り出す。 「無併合・無賠償・民族自決」を掲げるソヴィエト全権トロツキーに、交渉は難航するが、ついに、ドイツ側の要求が全面的に通る形で、ブレストリトフスク条約に結実。 東部戦線が片づいたドイツは、全軍事力を西部戦線に傾け、「カイザー戦」と銘打って総反攻を決定する。 しかし、その会議には、首相も、参謀総長も、そして、皇帝の姿すらなかった…。 ルーデンドルフの暴走は止まらない。
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[1918年下半期ドイツ総崩れ] 18年8月、とうとうドイツの総崩れが始まった。 9月には、ブルガリアが降伏、トルコはすでに死に体(10月に降伏)。 追い詰められたルーデンドルフは、その小者ぶりを露呈! 「抗戦」と「和平」を無定見に朝令暮改するルーデンドルフ。 心身耗弱に陥ったルーデンドルフは、ようやく更迭されるも、時はすでにあまりにも遅すぎた! 仲介に乗り出したアメリカは、帝制廃止を突きつけてくる。 もはや、帝国の命運は尽きた…。
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[第一次世界大戦パネル位置] ここまで見てきた第一次世界大戦の各パネルの出来事は、ヨーロッパ地図全体の中で、どこに位置しているのか。 これを理解することは、歴史理解を深めるために必須である。 地図を目にしたときは、つねに、全体地図の中でどのあたりの地図なのかを理解するように努めよう。
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[ドイツ革命の勃発] 軍部を暴走させていたルーデンドルフが心神耗弱に陥って更迭されたその日、今度は海軍が暴走しはじめた。 「たとえ全滅したとしても名誉ある最期を!」との号令の下、皇帝の裁可なしに勝手に出撃命令が発せられる。 これではもはや、帝国は、実際に滅亡する前に、すでにその体を成さなくなっていたと言ってよい。 水兵の不満が爆発、それはアッという間に革命騒ぎに拡大していく。 事ここに至っても、ヴィルヘルム2世は、目の前の出来事の重大性が理解できず、帝位にしがみつこうとするが、子供のような駄々が通用するはずもなく…。
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[ドイツ革命の収束] 帝国の崩壊後は、エーベルト率いる「ドイツ共和国」と、カールリープクネヒト率いる「ドイツ社会主義共和国」の主導権争いに入る。 しかし、軍部を味方につけて、いち早く主導権を握ったのは「共和国」側であった。 エーベルトは、第二第三の手をつぎつぎと打ち、あれよあれよという間にリープクネヒトを追い詰める。 急速に沈静化する革命の動きに、あせったリープクネヒトは、無計画な革命騒ぎを起こしてしまい、それは取り返しのつかない結果を生むことに…。
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[革命分子の蠢動] ロシアが西欧諸国に追いつき、追い越すためには、第2次産業革命は必須であった。 そこで、皇帝アレクサンドル3世は、フランスと同盟を結ぶことで産業革命を推進していく。 しかし、永年にわたって農業国家であったロシアに、産業革命を埋め込むことは、その社会・経済にどうしても大きな歪みをもたらしてしまう。 その歪みの中から、19世紀末〜20世紀初頭にかけて、ロシア社会民主労働党、ロシア社会革命党、ロシア立憲民主党といった、革命の主役たちがぞくぞくと生まれてくることになる。
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[ロシアの社会主義者の基本理論] ロシア革命の基本理論はマルキシズム(マルキズム)である。 したがって、マルキシズムの理解なくして、ロシア革命の理解はありえない。 プレハーノフが、初めてロシアにマルキシズムをもたらすと、それは悪性のガン細胞のように、アッという間にロシアに蔓延し、やがて帝国を食い殺すことになった。 しかし、本体を食いつぶしたガン細胞が、ガン細胞だけで生きながらえることはできない。 やがて、このガン細胞(マルキシズム)は、ロシア国民の無尽蔵な血を要求し、地獄絵図のような国になるとは、プレハーノフも予想だにしなかったろう。
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[ロシア社会民主労働党右派] マルキシズムは完全な“欠陥商品”だった! 全世界の国々に対応できるはずのマルキシズムなのに、ロシアの政治状況にまったく対応できない。 その時点で、欠陥思想だと気がついてもよさそうなものだが、ロシアの革命家はそれを認めようとせず、なんとかロシア風にアレンジすべく苦心惨憺。 その結果、ロシアでは、さまざまなマルキシズムの亜流が現れる。 メンシェヴィズムもそのひとつに過ぎない。 だが、元にしたイデオロギーが“欠陥商品”のため、メンシェヴィズムもまた支離滅裂であった…。
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[ロシア社会民主労働党左派] メンシェヴィズムの矛盾を激しく糾弾するレーニン。 しかし、彼の思想もまた支離滅裂であった。 根本理念のマルキシズムが欠陥思想である以上、当然の帰結なのだが、じつは、彼にとって、それすらどうでもいいことであった。 彼にとって、社会主義の実現など、“ほんとうの目的”を達成するための道具にすぎなかったのだから…。 彼の“ほんとうの目的”とは…?
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[ロシア社会民主労働党中道派] 孤高のロシア社会主義者トロツキー。 彼は、メンシェヴィズムでもレーニズムでもない。牛後に満足することなく、自己の主張を曲げない。 すでにマルキシズムという枠すら乗り越える思想を以て、ひとり、両者を糾弾した。 もちろん、マルキシズムを基盤にしている以上、彼の思想もまた“欠陥品”ではあるが、のち、三月革命で自説の誤りを証明されたレーニンが、彼の学説になびいてくることになる。
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[ロシア社会民主労働党の分裂] のちにロシア革命を成し遂げることになるロシア社会民主労働党は、結党当初より波乱の幕開けであった。 第1回党大会は当局による弾圧でいったん解体。 第2回党大会も、レーニンとマルトフの党内対立が深刻化、いきなり分裂の危機に陥る。 党規約第1条において、レーニンは前衛政党を、マルトフは大衆政党を主張。 諸外国を見渡せば、中国でも、トルコでも、イタリアでも、前衛政党はことごとく失敗、大衆政党に移行しているが、ロシアの場合は果たして…。
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[ロシア第一革命の発生] 皇帝の肖像を掲げ、皇帝を父と慕い、皇帝を賛美しながら行進するデモ行進に、軍が無差別殺戮の惨劇が勃発! 「血の日曜日」と名づけられたこの事件が、革命への序曲となった。 「余はこたびの労働者どもの反抗を赦す」 ピントのずれた皇帝の発言に、民心は急速に皇帝から離れていく…。 この瞬間、ロシアは“詰んだ”と言ってよい。ここから滅亡までは一本道、5手で詰むか、10手で詰むか、の違いにすぎない。 レーニンものちに述懐している。 「血の日曜日は革命家が100年かけてもできないことを1日で成し遂げた」
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[ロシア第一革命の激化] 各地で勃発したストライキは、ソヴィエトに指導され、全国規模のゼネストに発展していく。 もはや、帝国は断末魔の声をあげ、仮死状態に。 そんな折も折、ポチョムキン号で水兵反乱が勃発。 労働者の革命に軍部が合流することになれば、帝国はイッキに存亡の危機に陥ることは火を見るより明らか。 帝国はただちにオデッサに軍を配備、革命と軍の合流を阻止しようとする。 合流阻止は成功するのか、合流が成功するのか。 急速に解体しつつある帝国の危機を救うべく現れる救世主は誰か。
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[ロシア第一革命の収束] 皇帝より全権を委ねられたヴィッテ首相は、いやがる皇帝を説き伏せて、十月勅令を発布。 これにより、たちまちロシア第一革命は沈静化していく。 革命を離脱していくメンシェビキに、革命続行を叫ぶボルシェヴィキ。 焦ったレーニンは、モスクワ武装蜂起を指導するも、あえなく失敗。 スイスへの亡命を余儀なくされる。 このため、レーニンは来るべき三月革命に参画できなくなってしまう。
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[ヴィッテ首相時代] ヴィッテが発布した十月勅令に基づき、第1次総選挙が開催される。 その結果は、第1党カデット、第2党トルドヴィキで過半数突破。 ニコライの贔屓政党オクチャブリストはたったの26議席で惨敗してしまう。 右翼政党の大勝利を信じて疑わなかった皇帝ニコライ2世は、その結果に激怒、ヴィッテを更迭してしまう。 後任は、口先三寸の無能ゴレムイキン。いよいよ帝国は傾いてゆく…。
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[ゴレムイキン首相時代] 紆余曲折、ようやくロシア帝国憲法は発布された。 しかし、時代が見えていない無能ゴレムイキンと、暗君ニコライ2世のもとに作られた憲法である。形式的なものになるのは必然であった。 ツァーリズム体制を追認する王権神授説が高らかに謳われ(第4条)、ドゥーマの権限は限りなく制限されていた。 こんな憲法で、国民が納得するはずもないが、皇帝もゴレムイキン首相も、これで事が納まると信じて疑わない。
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[ストルイピン首相時代@] 当然のごとく、ドゥーマの怒りは爆発するが、無能ゴレムイキンにとって、これは想定外のことであり、ただ狼狽するのみで、無策であった。 ゴレムイキン首相のあまりの頼りなさ、ドゥーマの態度に、皇帝も怒り心頭、ただちに、ゴレムイキンの更迭と議会解散を命ずる。 後任に選ばれたのは、新進気鋭、ストルイピンであった。彼のサラトフ県知事時代の功績が評価されたのだ。 彼は第3代首相になると、「まずは平静を」の大号令のもと、大粛正に突入、第2次・第3次総選挙を実施して、議会の右傾化に全力を尽くした。
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[ストルイピン首相時代A] いよいよストルイピン首相の改革が本格化。 右傾議会を作り出すことに成功したストルイピン首相は、「しかるのち改革を」のスローガンの下、 (1)クラークの創出 (2)ミールの解体 のみが帝国を守る唯一の支柱であると信じて、改革に奔走するが、旧勢力・新勢力、双方からの妨害にあい、改革は進まない。 時間だけが刻々と過ぎていく中、とうとうエスエル過激派党員の凶弾が彼を襲う。
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[怪僧ラスプーチン支配時代] ストルイピン首相亡き後、帝国滅亡まで、有能な政治家が現れることはついになかった。 帝国は傾く一方の折、怪僧ラスプーチンが現れる。 彼は、帝室の不幸につけいり、帝室を意のままに操る。 暗君のニコライ2世には、この怪僧が単なる宗教詐欺師だということも、皇后を寝取られていることすらも見抜けない。 “聖人様”と帝室から崇められた怪僧は、宮廷の貴婦人をカタッパシから手をつけ、ハーレムをつくって淫蕩三昧。 貴族の怒りを買って、暗殺されることになるが…。
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[三月革命の勃発と軍部の対応] 第一革命は日露戦争のさなかに勃発した。今回、三月革命は第一次世界大戦のさなかに勃発する! 今回も、第一革命同様、帝都から始まった。似たような虐殺事件も勃発し、“第二の血の日曜日”と呼ばれる。 しかし、今回は、第一革命とは決定的な違いが生まれる。 なんと、軍部が動揺、崩壊し、雪崩を打って革命側に合流しはじめたのだ! 帝国は無政府状態となり、政府は機能を停止、一刻の猶予もなくなった旨を打電するも、ニコライは言い放った。 「意味不明なこと言いやがって!」 まるで事の重大性が理解できない皇帝であった。
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[革命の進展とドゥーマの対応] 軍隊が革命側に合流したことで、革命の成功を一気に引き寄せることになった三月革命。 ドゥーマは動揺し、狼狽し、崩壊しはじめる。ドゥーマ議長ロジャンコも完全に白旗を揚げる。 しかし、その裏腹に、当のソヴィエトにはメンシェヴィキに指導されていたため、政権奪取の意志はまったくなかった。 メンシェヴィキにとって、ブルジョワ革命こそが目的であったからである。
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[革命の終局とニコライ2世の対応] 各方面からの説得の中で、ようやく覚悟を決めたドゥーマ議長ロジャンコは、臨時政府を誕生させることを決意する。 …が、その後、ロジャンコの不手際がつづき、軍部の掌握に失敗。 これにより、ソヴィエトとの二重権力構造が生まれ、昏迷に滑車をかけたにすぎなかった。 さて、モギリョフ前線基地にいた皇帝ニコライは、事ここに至っても、まったく事の重大性に気がつかない。 ニコライ2世が、自分の立たされている立場に気づいたのは、退位させられるわずか半日前であった。
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[ロマノフ朝ロシア帝国の滅亡] 臨時政府は、「こたびの騒乱収拾のためには、もはやニコライ2世に退位してもらう以外にナシ!」との結論を出していたが、帝国そのものを滅ぼすつもりは毛頭なかった。 ニコライ2世も、ようやく状況を理解し、退位を受諾、弟に帝位を譲ることを宣言する。 しかし、弟ミハイルは、帝位受諾を拒否。帝位は空位となってしまう。 ここに、300年の歴史を誇るロシア帝国はついに滅亡した! スイスに亡命中のレーニンは、おのれが革命に参画できなかったことを知らされると、地団駄を踏み、焦燥する。
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[レーニン帰国までのロシアの動向] 臨時政府は、政権発足5日後、「第二声明」を発表、戦争継続の宣言する。 しかし、それは、「三月革命」の精神をまっこうから否定するものであった。 「戦争反対」から巻きおこった革命が成功して、その中から生まれた臨時政府なのに、その政府が「戦争継続」を宣言する。 まさに本末転倒である。 もちろん、戦争継続反対の立場にあるソヴィエトであったが、メンシェヴィズムによれば、ブルジョワ政権における、こうした横暴は折り込み済みのはずであり、これを100年にわたり甘受しなければならないはずであった。彼らは、理論と現実の狭間で苦悩する。
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[レーニン帰国への努力] 三月革命成功の方を聞いたレーニンは焦燥する。 一刻も早く帰国して、革命に参画したいレーニンと、東部戦線を消滅させたいドイツとの思惑が一致! レーニンはドイツの護送列車で帰国することとなった。 しかし、すでに、レーニン思想の誤謬は三月革命で証明されてしまっている。 そのレーニンが、いまさら帰国して、彼の居場所はあるのだろうか。 しかし、彼は恥も外聞もなく自説を曲げ、トロツキズムに走ることで、自分の存在意義を見いだしていた。 ここに、彼の本性が見え隠れしはじめる。
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[レーニン帰国] 帰国するやいなや、レーニンは日も明けやらぬうちに演説をはじめる。 いわゆる「四月テーゼ」である。 しかし、その演説は、従来からのレーニズムを自ら全否定するものであり、トロツキズムに走るものであった。 あまりの無定見ぶりに、メンシェビキはいうに及ばず、ボルシェビキサイドからさえも非難を受け、孤立化していく。 しかし、レーニンのこの無定見は、孤高のトロツキーを喜ばせた。 ニューヨーク亡命中のトロツキーは、ただいちに帰国、ついこの間まで犬猿の仲であったレーニンとトロツキーは、手を握り、ここに強力タッグが形成されることになる。
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[リヴォフ公内閣の動揺] いったん孤立化したレーニンであったが、臨時政府(ミリューコフ外相)のポカにより、レーニンの煽動が急速に奏功しはじめる。 このときの四月危機はなんとか沈静化させることに成功したものの、臨時政府は危機感を募らせる。 レーニンを黙らせないかぎり、第二、第三の“四月危機”が起こるだろう。 そこで、レーニンをふたたび孤立化させるために、メンシェヴィキとエスエルを懐に取り込むことを策動する。 その結果、「七月暴動」を機に、一気にボルシェビキを弾圧、レーニンは、ふたたび亡命を余儀なくされてしまった。
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[ケレンスキー内閣の成立] しかし、ボルシェビキの弾圧は不徹底に終わる。 責任を取る形でリヴォフ公は辞任、ケレンスキー内閣が誕生する。 とはいえ、問題は山積、臨時政府はすでに限界に達し、空中分解は時間の問題となりつつあった。 なんとか、統領政府を作ることで、一時凌ぎをしようと目論んでいたケレンスキーではあったが…。 しかし、そんな先のない臨時政府を横目に、コルニーロフ将軍とサヴィンコフの野心の炎はメラメラと燃えはじめていた。
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[ケレンスキー内閣の崩壊] ついにコルニーロフ将軍が決起する! 臨時政府はなすところなく狼狽し、カデットはグル、メンシェヴィキとエスエルは傍観、という為体(ていたらく)。 ここに、ふたたびレーニン決起のチャンスが訪れた! レーニンは、ボルシェヴィキを指導し、コルニーロフのクーデタをアッケなく鎮圧。 その結果、急速にボルシェヴィキの勢力が拡大していった。 レーニンは叫ぶ。 「我々は決起しなければならない!」 「待つことは犯罪である!」 「我々は無条件かつ疑いなく勝利するであろう!」 こうして“十一月革命”は勃発した。
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[十一月革命の勃発] とうとう十一月革命が始まった! 冬宮前に大砲を並べ、兵を配備し、「断固弾圧!」を叫ぶケレンスキー。 しかし、革命勃発のその日のうちに、冬宮周辺の橋は、ニコライ橋を残してすべて革命側の手に落ちる。 翌日には、ケレンスキーは亡命、「革命など成功するはずがない」という大方の予想を破って、いともあっけなく革命は成功してしまう。 ただちに、第2回全ロシア=ソヴィエト会議が開催され、革命成功の号外が街に撒かれる。 これを見た市民が嘲笑して言った。 「まぁ、3日と保つまいよ。」 ……70年保った。
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[十一月革命の達成] 「平和に関する布告」 「土地に関する布告」 つぎつぎと声明を発表する新政府。 「人民委員会議」も成立し、徐々に“政府”としての体裁が整えられていく。 だが、問題はあった。 ケレンスキー政権が倒れる寸前に残していった「憲法制定会議選挙」をどうやって切り抜けるか。 新政府最初の試練が待ち構えていた。
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[ボルシェヴィキ独裁の完成] 憲制会議選挙に前後して、レーニンは休戦交渉を参戦国に呼びかける。 ドイツ以外はこれを黙殺、業を煮やしたレーニンは、帝政ロシアが所有していた秘密文書(サイクスピコ協定・ロンドン密約など)を暴露する! これに英仏は狼狽するが、アメリカはこれを機に「十四ヶ条」を発表して、自国の存在意義を世界に示した。 さて、国内においては、憲制会議選挙は、レーニンの予想通り大敗した。 このままでは、十一月革命の成果をエスエルに乗っ取られてしまう。 レーニンはひとつの決断に迫られることになる。 その決断とは!?
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