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神野正史先生の
一般書籍紹介

 











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神野正史著者ページ

 

















 


おことわり

まだ公開講座の数は少ないですが、順次追加配本されていきますので、長い目でお見守りください。

講座内容のご紹介

第2回配本 ロシア革命 

[革命分子の蠢動]
ロシアが西欧諸国に追いつき、追い越すためには、第2次産業革命は必須であった。
そこで、皇帝アレクサンドル3世は、フランスと同盟を結ぶことで産業革命を推進していく。
しかし、永年にわたって農業国家であったロシアに、産業革命を埋め込むことは、その社会・経済にどうしても大きな歪みをもたらしてしまう。
その歪みの中から、19世紀末〜20世紀初頭にかけて、ロシア社会民主労働党、ロシア社会革命党、ロシア立憲民主党といった、革命の主役たちがぞくぞくと生まれてくることになる。

[ロシアの社会主義者の基本理論]
ロシア革命の基本理論はマルキシズム(マルキズム)である。
したがって、マルキシズムの理解なくして、ロシア革命の理解はありえない。
プレハーノフが、初めてロシアにマルキシズムをもたらすと、それは悪性のガン細胞のように、アッという間にロシアに蔓延し、やがて帝国を食い殺すことになった。
しかし、本体を食いつぶしたガン細胞が、ガン細胞だけで生きながらえることはできない。
やがて、このガン細胞(マルキシズム)は、ロシア国民の無尽蔵な血を要求し、地獄絵図のような国になるとは、プレハーノフも予想だにしなかったろう。

[ロシア社会民主労働党右派]
マルキシズムは完全な“欠陥商品”だった!
全世界の国々に対応できるはずのマルキシズムなのに、ロシアの政治状況にまったく対応できない。
その時点で、欠陥思想だと気がついてもよさそうなものだが、ロシアの革命家はそれを認めようとせず、なんとかロシア風にアレンジすべく苦心惨憺。
その結果、ロシアでは、さまざまなマルキシズムの亜流が現れる。
メンシェヴィズムもそのひとつに過ぎない。
だが、元にしたイデオロギーが“欠陥商品”のため、メンシェヴィズムもまた支離滅裂であった…。

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[ロシア社会民主労働党左派]
メンシェヴィズムの矛盾を激しく糾弾するレーニン。
しかし、彼の思想もまた支離滅裂であった。
根本理念のマルキシズムが欠陥思想である以上、当然の帰結なのだが、じつは、彼にとって、それすらどうでもいいことであった。
彼にとって、社会主義の実現など、“ほんとうの目的”を達成するための道具にすぎなかったのだから…。
彼の“ほんとうの目的”とは…?

[ロシア社会民主労働党中道派]
孤高のロシア社会主義者トロツキー。
彼は、メンシェヴィズムでもレーニズムでもない。牛後に満足することなく、自己の主張を曲げない。
すでにマルキシズムという枠すら乗り越える思想を以て、ひとり、両者を糾弾した。
もちろん、マルキシズムを基盤にしている以上、彼の思想もまた“欠陥品”ではあるが、のち、三月革命で自説の誤りを証明されたレーニンが、彼の学説になびいてくることになる。

[ロシア社会民主労働党の分裂]
のちにロシア革命を成し遂げることになるロシア社会民主労働党は、結党当初より波乱の幕開けであった。
第1回党大会は当局による弾圧でいったん解体。
第2回党大会も、レーニンとマルトフの党内対立が深刻化、いきなり分裂の危機に陥る。
党規約第1条において、レーニンは前衛政党を、マルトフは大衆政党を主張。
諸外国を見渡せば、中国でも、トルコでも、イタリアでも、前衛政党はことごとく失敗、大衆政党に移行しているが、ロシアの場合は果たして…。

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[ロシア第一革命の発生]
皇帝の肖像を掲げ、皇帝を父と慕い、皇帝を賛美しながら行進するデモ行進に、軍が無差別殺戮の惨劇が勃発!
「血の日曜日」と名づけられたこの事件が、革命への序曲となった。
「余はこたびの労働者どもの反抗を赦す」
ピントのずれた皇帝の発言に、民心は急速に皇帝から離れていく…。
この瞬間、ロシアは“詰んだ”と言ってよい。ここから滅亡までは一本道、5手で詰むか、10手で詰むか、の違いにすぎない。
レーニンものちに述懐している。
「血の日曜日は革命家が100年かけてもできないことを1日で成し遂げた」

[ロシア第一革命の激化]
各地で勃発したストライキは、ソヴィエトに指導され、全国規模のゼネストに発展していく。
もはや、帝国は断末魔の声をあげ、仮死状態に。
そんな折も折、ポチョムキン号で水兵反乱が勃発。
労働者の革命に軍部が合流することになれば、帝国はイッキに存亡の危機に陥ることは火を見るより明らか。
帝国はただちにオデッサに軍を配備、革命と軍の合流を阻止しようとする。
合流阻止は成功するのか、合流が成功するのか。
急速に解体しつつある帝国の危機を救うべく現れる救世主は誰か。

[ロシア第一革命の収束]
皇帝より全権を委ねられたヴィッテ首相は、いやがる皇帝を説き伏せて、十月勅令を発布。
これにより、たちまちロシア第一革命は沈静化していく。
革命を離脱していくメンシェビキに、革命続行を叫ぶボルシェヴィキ。
焦ったレーニンは、モスクワ武装蜂起を指導するも、あえなく失敗。
スイスへの亡命を余儀なくされる。
このため、レーニンは来るべき三月革命に参画できなくなってしまう。

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[ヴィッテ首相時代]
ヴィッテが発布した十月勅令に基づき、第1次総選挙が開催される。
その結果は、第1党カデット、第2党トルドヴィキで過半数突破。
ニコライの贔屓政党オクチャブリストはたったの26議席で惨敗してしまう。
右翼政党の大勝利を信じて疑わなかった皇帝ニコライ2世は、その結果に激怒、ヴィッテを更迭してしまう。
後任は、口先三寸の無能ゴレムイキン。いよいよ帝国は傾いてゆく…。

[ゴレムイキン首相時代]
紆余曲折、ようやくロシア帝国憲法は発布された。
しかし、時代が見えていない無能ゴレムイキンと、暗君ニコライ2世のもとに作られた憲法である。形式的なものになるのは必然であった。
ツァーリズム体制を追認する王権神授説が高らかに謳われ(第4条)、ドゥーマの権限は限りなく制限されていた。
こんな憲法で、国民が納得するはずもないが、皇帝もゴレムイキン首相も、これで事が納まると信じて疑わない。

[ストルイピン首相時代@]
当然のごとく、ドゥーマの怒りは爆発するが、無能ゴレムイキンにとって、これは想定外のことであり、ただ狼狽するのみで、無策であった。
ゴレムイキン首相のあまりの頼りなさ、ドゥーマの態度に、皇帝も怒り心頭、ただちに、ゴレムイキンの更迭と議会解散を命ずる。
後任に選ばれたのは、新進気鋭、ストルイピンであった。彼のサラトフ県知事時代の功績が評価されたのだ。
彼は第3代首相になると、「まずは平静を」の大号令のもと、大粛正に突入、第2次・第3次総選挙を実施して、議会の右傾化に全力を尽くした。

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[ストルイピン首相時代A]
いよいよストルイピン首相の改革が本格化。
右傾議会を作り出すことに成功したストルイピン首相は、「しかるのち改革を」のスローガンの下、
(1)クラークの創出
(2)ミールの解体
のみが帝国を守る唯一の支柱であると信じて、改革に奔走するが、旧勢力・新勢力、双方からの妨害にあい、改革は進まない。
時間だけが刻々と過ぎていく中、とうとうエスエル過激派党員の凶弾が彼を襲う。

[怪僧ラスプーチン支配時代]
ストルイピン首相亡き後、帝国滅亡まで、有能な政治家が現れることはついになかった。
帝国は傾く一方の折、怪僧ラスプーチンが現れる。
彼は、帝室の不幸につけいり、帝室を意のままに操る。
暗君のニコライ2世には、この怪僧が単なる宗教詐欺師だということも、皇后を寝取られていることすらも見抜けない。
“聖人様”と帝室から崇められた怪僧は、宮廷の貴婦人をカタッパシから手をつけ、ハーレムをつくって淫蕩三昧。
貴族の怒りを買って、暗殺されることになるが…。

[三月革命の勃発と軍部の対応]
第一革命は日露戦争のさなかに勃発した。今回、三月革命は第一次世界大戦のさなかに勃発する!
今回も、第一革命同様、帝都から始まった。似たような虐殺事件も勃発し、“第二の血の日曜日”と呼ばれる。
しかし、今回は、第一革命とは決定的な違いが生まれる。
なんと、軍部が動揺、崩壊し、雪崩を打って革命側に合流しはじめたのだ!
帝国は無政府状態となり、政府は機能を停止、一刻の猶予もなくなった旨を打電するも、ニコライは言い放った。
「意味不明なこと言いやがって!」
まるで事の重大性が理解できない皇帝であった。

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[革命の進展とドゥーマの対応]
軍隊が革命側に合流したことで、革命の成功を一気に引き寄せることになった三月革命。
ドゥーマは動揺し、狼狽し、崩壊しはじめる。ドゥーマ議長ロジャンコも完全に白旗を揚げる。
しかし、その裏腹に、当のソヴィエトにはメンシェヴィキに指導されていたため、政権奪取の意志はまったくなかった。
メンシェヴィキにとって、ブルジョワ革命こそが目的であったからである。

[革命の終局とニコライ2世の対応]
各方面からの説得の中で、ようやく覚悟を決めたドゥーマ議長ロジャンコは、臨時政府を誕生させることを決意する。
…が、その後、ロジャンコの不手際がつづき、軍部の掌握に失敗。
これにより、ソヴィエトとの二重権力構造が生まれ、昏迷に滑車をかけたにすぎなかった。
さて、モギリョフ前線基地にいた皇帝ニコライは、事ここに至っても、まったく事の重大性に気がつかない。
ニコライ2世が、自分の立たされている立場に気づいたのは、退位させられるわずか半日前であった。

[ロマノフ朝ロシア帝国の滅亡]
臨時政府は、「こたびの騒乱収拾のためには、もはやニコライ2世に退位してもらう以外にナシ!」との結論を出していたが、帝国そのものを滅ぼすつもりは毛頭なかった。
ニコライ2世も、ようやく状況を理解し、退位を受諾、弟に帝位を譲ることを宣言する。
しかし、弟ミハイルは、帝位受諾を拒否。帝位は空位となってしまう。
ここに、300年の歴史を誇るロシア帝国はついに滅亡した!
スイスに亡命中のレーニンは、おのれが革命に参画できなかったことを知らされると、地団駄を踏み、焦燥する。

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[レーニン帰国までのロシアの動向]
臨時政府は、政権発足5日後、「第二声明」を発表、戦争継続の宣言する。
しかし、それは、「三月革命」の精神をまっこうから否定するものであった。
「戦争反対」から巻きおこった革命が成功して、その中から生まれた臨時政府なのに、その政府が「戦争継続」を宣言する。
まさに本末転倒である。
もちろん、戦争継続反対の立場にあるソヴィエトであったが、メンシェヴィズムによれば、ブルジョワ政権における、こうした横暴は折り込み済みのはずであり、これを100年にわたり甘受しなければならないはずであった。彼らは、理論と現実の狭間で苦悩する。

[レーニン帰国への努力]
三月革命成功の方を聞いたレーニンは焦燥する。
一刻も早く帰国して、革命に参画したいレーニンと、東部戦線を消滅させたいドイツとの思惑が一致!
レーニンはドイツの護送列車で帰国することとなった。
しかし、すでに、レーニン思想の誤謬は三月革命で証明されてしまっている。
そのレーニンが、いまさら帰国して、彼の居場所はあるのだろうか。
しかし、彼は恥も外聞もなく自説を曲げ、トロツキズムに走ることで、自分の存在意義を見いだしていた。
ここに、彼の本性が見え隠れしはじめる。

[レーニン帰国]
帰国するやいなや、レーニンは日も明けやらぬうちに演説をはじめる。
いわゆる「四月テーゼ」である。
しかし、その演説は、従来からのレーニズムを自ら全否定するものであり、トロツキズムに走るものであった。
あまりの無定見ぶりに、メンシェビキはいうに及ばず、ボルシェビキサイドからさえも非難を受け、孤立化していく。
しかし、レーニンのこの無定見は、孤高のトロツキーを喜ばせた。
ニューヨーク亡命中のトロツキーは、ただいちに帰国、ついこの間まで犬猿の仲であったレーニンとトロツキーは、手を握り、ここに強力タッグが形成されることになる。

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[リヴォフ公内閣の動揺]
いったん孤立化したレーニンであったが、臨時政府(ミリューコフ外相)のポカにより、レーニンの煽動が急速に奏功しはじめる。
このときの四月危機はなんとか沈静化させることに成功したものの、臨時政府は危機感を募らせる。
レーニンを黙らせないかぎり、第二、第三の“四月危機”が起こるだろう。
そこで、レーニンをふたたび孤立化させるために、メンシェヴィキとエスエルを懐に取り込むことを策動する。
その結果、「七月暴動」を機に、一気にボルシェビキを弾圧、レーニンは、ふたたび亡命を余儀なくされてしまった。
 

[ケレンスキー内閣の成立]
しかし、ボルシェビキの弾圧は不徹底に終わる。
責任を取る形でリヴォフ公は辞任、ケレンスキー内閣が誕生する。
とはいえ、問題は山積、臨時政府はすでに限界に達し、空中分解は時間の問題となりつつあった。
なんとか、統領政府を作ることで、一時凌ぎをしようと目論んでいたケレンスキーではあったが…。
しかし、そんな先のない臨時政府を横目に、コルニーロフ将軍とサヴィンコフの野心の炎はメラメラと燃えはじめていた。

[ケレンスキー内閣の崩壊]
ついにコルニーロフ将軍が決起する!
臨時政府はなすところなく狼狽し、カデットはグル、メンシェヴィキとエスエルは傍観、という為体(ていたらく)。
ここに、ふたたびレーニン決起のチャンスが訪れた!
レーニンは、ボルシェヴィキを指導し、コルニーロフのクーデタをアッケなく鎮圧。
その結果、急速にボルシェヴィキの勢力が拡大していった。
レーニンは叫ぶ。
「我々は決起しなければならない!」
「待つことは犯罪である!」
「我々は無条件かつ疑いなく勝利するであろう!」
こうして“十一月革命”は勃発した。

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[十一月革命の勃発]
とうとう十一月革命が始まった!
冬宮前に大砲を並べ、兵を配備し、「断固弾圧!」を叫ぶケレンスキー。
しかし、革命勃発のその日のうちに、冬宮周辺の橋は、ニコライ橋を残してすべて革命側の手に落ちる。
翌日には、ケレンスキーは亡命、「革命など成功するはずがない」という大方の予想を破って、いともあっけなく革命は成功してしまう。
ただちに、第2回全ロシア=ソヴィエト会議が開催され、革命成功の号外が街に撒かれる。
これを見た市民が嘲笑して言った。
「まぁ、3日と保つまいよ。」
……70年保った。

[十一月革命の達成]
「平和に関する布告」
「土地に関する布告」
つぎつぎと声明を発表する新政府。
「人民委員会議」も成立し、徐々に“政府”としての体裁が整えられていく。
だが、問題はあった。
ケレンスキー政権が倒れる寸前に残していった「憲法制定会議選挙」をどうやって切り抜けるか。
新政府最初の試練が待ち構えていた。

[ボルシェヴィキ独裁の完成]
憲制会議選挙に前後して、レーニンは休戦交渉を参戦国に呼びかける。
ドイツ以外はこれを黙殺、業を煮やしたレーニンは、帝政ロシアが所有していた秘密文書(サイクスピコ協定・ロンドン密約など)を暴露する!
これに英仏は狼狽するが、アメリカはこれを機に「十四ヶ条」を発表して、自国の存在意義を世界に示した。
さて、国内においては、憲制会議選挙は、レーニンの予想通り大敗した。
このままでは、十一月革命の成果をエスエルに乗っ取られてしまう。
レーニンはひとつの決断に迫られることになる。
その決断とは!?

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