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神野正史先生の
一般書籍紹介

 











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神野正史著者ページ

 

















 


おことわり

まだ公開講座の数は少ないですが、順次追加配本されていきますので、長い目でお見守りください。

講座内容のご紹介

第5回配本 イスラーム世界の成立 

[ジャーヒリーヤ時代]
イスラームが生まれる以前の時代のことを、ムスリムは、「ジャーヒリーヤ」すなわち「無明時代」と呼ぶ。
この世に光と救いをもたらす「イスラーム」が存在しない時代。
文明もなく、すべての人が地獄に落とされる暗黒の時代。
しかし、ムスリムが「無明」と呼ぶ、この時代にこそ、イスラーム揺籃の時代背景があった。
6世紀、長く打ちつづいていたビザンツとササンの抗争は、交易路を阻害し、その影響で、つねに「辺境」であったアラビア半島周辺がにわかに活況を呈してくることになる。そうした社会背景がイスラームを生む揺籃となったのだ。

[ムハンマドの生い立ち]
教祖ムハンマドは、たいへん不遇な少年時代を送った。
父はムハンマドが生まれる前に死亡、6歳で孤児となり、親戚をたらい回しにされた。
しかし、25歳のとき、大富豪だが、40歳バツ2のハディージャと結婚したことは、彼の人生の転機となった。
彼は結婚後、生活に余裕が生まれると、まもなく洞窟に籠もるようになる。
ヒラー山の洞窟に籠もって15年。
彼の前に突如、大天使ジブリールが現れた(と本人は主張する)。
現代医学では、側頭葉に異常のある人は、電磁場の影響で幻覚・幻聴を聴くというが…。真実はいかに。

[六信五行]
イスラーム信仰というのは、「資格としての六信」と「義務としての五行」を基本とする。
・ 唯一神を信じること。
・ 天使の存在を信じること。
・ 経典を信じること。
・ 預言者を信じること。
・ 来世(楽園)の存在を信じること。
・ 予定を信じること。
この6つを1つ残らずすべて、全面的に信じる者をムスリムという。
そして、ムスリムになった者には、5つの義務が負わされる。
この「六信五行」を知らずして、彼らの言動・歴史を理解することはできない。

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[イスラーム教義]
イスラームの世界観を紐解くと、それは、ユダヤ教とキリスト教の教義の影響を色濃く受けていることがわかる。
神の概念、戒律、食事観、女性観…。
すみずみにいたるまで、聖書の価値観とウリ2つである。
それというのも、開祖ムハンマドは、若かりしころ、叔父に連れられて各地を行商した折、ユダヤ教徒やキリスト教徒に接し、聖書の知識を聞きかじっていたため、その口から発せられる教えが聖書の影響を受けているのは当然といえば当然であった。
このページでは、イスラームタブーと預言者という側面からイスラーム教義に迫る。

[ムハンマドの布教活動]
やがて、預言者としての自覚を持ったムハンマドは、まもなくメッカにて布教活動に入る。
彼は、預言者としての義務であった「奇蹟」を伴わない布教活動を行った。
信者は言う。
「奇蹟なき布教」こそが、最大の奇蹟である、と。
当時、メッカを抑えていたクライシュ族は、先祖伝来の神々を否定されただけではない、彼らはカーバ神殿の360柱の神々を「商売道具」としていたため、これを否定されることは絶対に許されないことであった。
ムハンマドは、クライシュ族に弾圧され、命からがらヤスリブに亡命することに。

[イスラームの半島統一]
622年、メディナに拠点を得たムハンマドは、ここに「教団国家(ウンマ)」を建設する。
彼は、これを地盤として、着実に力を蓄え、そのわずか8年後にメッカを征服してしまう。
彼は、その2年後には臨終するが、その2年間の内に、人類史上初めて、アラビア半島のほぼ全域を手中に収める。
しかし、強力なカリスマによって運営された組織は、そのカリスマが死んだ時、解体を始めるもの。
しかし、彼の事業を引き継いだアブー=バクルは、よくこれを守り、各地で発生した離反・反乱を鎮圧、教団の結束と、半島の再統一に尽力した。

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[正統カリフ第2代]
やがて、アブー=バクルからウマールにバトンタッチされると、彼は、いきなり大問題に突き当たる。
半島統一を成し遂げるために作り上げた大軍隊、半島統一を達成したあとはもてあますようになっていたのである。
彼は、この大軍をビザンツ帝国・ササン朝の領土を蚕食するために行使したため、イスラームの領土は、破竹の勢いで拡大していった。
しかし、それは、また新たな問題を生む。新たに手に入れたこの広大な領地をどのような統治をしていくのか。
ここで統治を誤れば、イスラームは一気に解体に向かうことになる。
イスラームの政治手腕が試される。

[正統カリフ第3代]
第2代ウマールは、一切のウンマ私物化を排斥した。
次期カリフの後継に彼の息子が促された時も感情的にこれを否定した。
世襲は、ウンマの私物化と腐敗を生むからである。
しかし、第3代ウスマーンは、この慣例を破り、自己の家柄ウマイヤ家を優遇してしまう。
しかし、それは、ウマールが懸念したように、イスラームの腐敗と内部対立を生んでいくことになる。
実際に、イスラームの解体が始まるのは8世紀以降になってからであるが、すでに、この瞬間から解体は始まっていたのである!

[正統カリフ第4代]
第3代ウスマーンが暗殺されると、第4代正統カリフにアリーが選出された。
しかし、はやくもこれを認めない勢力、アブー=バクル派とウマイヤ派が一斉に蜂起する。
第1次内乱の勃発である。
しかし、アリーの「戦上手」面目躍如。
まず、アブー=バクル派を駱駝の戦で撃破。
つぎに、ウマイヤ派とスィッフィーンで対峙したが、これも優位のうちに戦いを進める。
しかし、ここで、ムアーウィアは、驚く手に出て、アリー派に混乱と分裂を招くことに成功、この三ッ巴を制したのは、ムアーウィアであった。

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[ウマイヤ朝の成立]
見事、カリフ位を簒奪したムアーウィアは、それをウマイヤ家で独占するべく、子への世襲を試みる。
しかし、それは長い第2次内乱とシーア派分裂を引き起こすことになった。
カルバラーの惨劇が起こり、カーバ神殿が放火され、アブドゥッラーが蜂起し、ムフタールの乱が勃発する。
そのような混乱の中で、ウマイヤ朝カリフも在位数ヶ月のカリフがつづき、「カーバの呪い」が囁かれるほどであった。
しかし、この混乱も、ようやく、第5代アル=マンスールの代によって、鎮圧、落ち着きを取り戻すことに成功した。
しかし、シーア派の分離は決定的となり、現在まで、対立は収まっていない。

[シーア派の諸分派]
こうして生まれたシーア派は、アリーとその子孫(サイイド)にのみをイマームとして認めている。
しかし、それはひとつの致命的な問題を生んだ。
サイイドは、常に複数いるため、サイイドのうち誰を次期イマームにするかで、シーア派信者の中で分裂を繰り返す宿命を負っていたのである。
すなわち、これから生まれてくるシーア派系の諸分派を理解するためには、どうしても、アリーの系図を理解しなければならない。
このページでは、アリーの系図をたどりながら、どのような時代背景で分派が生まれていったのかを見てゆく。

[ウマイヤ朝の変質]
ようやく内乱を収束されたウマイヤ朝は、アブド=アル=マリク治世の下、かずかずの文化事業と諸改革を実施した。
イスラームの支配した地域は、エジプト文明・ローマ文明・ペルシア文明と、いずれも高度に発達した文明社会であり、彼らを臣従させるためには、どうしても、イスラーム側も彼らに負けない高度な文明を築き上げる必要性に迫られたのだ。
しかし、それらの文化事業は莫大な経費を要する。当時、「ある事情」によって収入は減る一方であったにもかかわらず、である。
彼にとって、税制改革は、文化事業と表裏一体の関係にあった。

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[ウマイヤ朝の膨張]
国内問題を解決したウマイヤ朝は、次期カリフ、ワリード1世から対外膨張戦争へ向かう。
東は中央アジアまで達し、唐・インドに肉薄し、西はイベリア半島まで拡大し、フランクと対峙。
さらに、北においては、ビザンツ帝国の帝都を包囲して、一気に小アジアとバルカンの奪取を試みた。
ヨーロッパ側からすれば、西から東から、イスラームに挟み撃ちにされた形となり、その対応に迫られる。
その対応が「西ヨーロッパ型封建制」となって帰結していくのである。
「ムハンマドなくしてシャルルマーニュなし」とは名言であった。

[アッバース朝の成立]
ウマイヤ朝は、マルワーン2世が遷都を強行したことで内乱を生んだ。
彼の拠点はハッラーンであったため、そこに帝都を遷そうと考えたのだ。
しかし、建国以来の帝都ダマスクスの住民がこれを看過するはずもない。
膨大な利権が奪われることになるからである。
ふたたび帝国は内乱化したが、今度は第2次内乱とは決定的に違った。
今回は「ウマイヤ家同士の同士討ち」であったのである。
これを機に、ウマイヤ家共通の敵、シーア派とアッバース家が結託、革命が起こった。
こうして王朝が交代することになる。

[アッバース朝安定期]
第2代マンスールは、新王朝の基盤造りに尽力した。
巨大な帝国を維持するためには、インフラ整備は必須だし、軍事組織・行政組織の整備も必須であった。
こうして、アミールを頂点とした常備軍と、ワズィールを頂点とした官僚制が完成した。
彼のおかげで帝国は安定した。
しかし、安定は、次世代の腐敗と混乱の揺籃となる。
アッバース朝も例外ではない。
まもなくイラン人の宰相ヤフヤーの専横を招くことになる。
もはや、カリフは傀儡、バルマク王朝の幕開けも近いかと思われた。

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[アッバース朝絶頂期]
宰相ヤフヤーに擁立された第5代ハルン=アル=ラシードは、長く、従順でおとなしいカリフを装いつづけた。
ヤフヤーの次男ジャアファルとは、親友としてつきあいを深めた。
妹をジャアファルに嫁がせもした。
すこしでも不穏な動きを見せれば、兄上のように毒殺される可能性が高かったからである。
しかし彼は、陰ではその「牙」を磨きつづけていたのである。
彼は、突如、親友ジャアファルの首をはねたかと思うと、バルマク家一族郎党1200人を皆殺しにし、政権の奪還に成功したのである。
彼の代、帝国は絶頂期を迎える。

[アッバース朝からの自立化]
ふくらみきった風船が破裂してしまうように、アッバース朝はその巨大な領土を維持できず、一気に崩壊が始まる。
アッバース朝創立直後に、イベリア半島で後ウマイヤ朝が自立化すると、それを皮切りに、イドリース朝、アグラブ朝、トゥルーン朝、そしてターヒル朝、とつぎつぎと自立化した政権が誕生していく。
しかしながら、これらの政権は、いずれも、「アミール」と自称し、アッバース朝への貢納を収めつづけ、表立って「反旗を翻す」わけでもなかった。
あたかも、中国でいうところの「春秋時代」がごとく。
しかし、「春秋」がやってきたということは「戦国の世」は近い。

[バグダード以西の独立化]
バグダード以西の地域では、独立化とシーア派化が同時に進行する。
チュニジアでアグラブを滅ぼして成立したファーティマ朝は、イスマーイール系のサイイドだと自称した。
彼らは「カリフ」を自称し、アッバース・カリフを僭称だとして認めず、全イスラーム世界の再統一を目指した。
さらに、後ウマイヤ朝までもがカリフを自称したことで、イスラーム世界に3人のカリフが鼎立、お互いに対立する事態となった。カリフというのは「神の後継者」であって、3人ものカリフが意見が対立するなど、宗教理論上ありえないことである。このことは、カリフの権威は失墜させることとなった。

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[バグダード以東の独立化]
バグダード以東の地域では、サッファール朝・サーマーン朝がアッバース朝からの独立化への担い手となる。
ターヒル朝が自立化したことで、ベルチスタン地方が飛び地となり、アッバースの支配が届かなくなったことで、サッファール朝が独立、拡大した。
まったく同じパターンが、サッファール朝からサーマーン朝へ移行する時にも起こった。
サーマーン朝は膨大なマムルーク軍団を率いて、バグダード以西を一気に制圧していったが、短期政権に終わり、次世代を担ったのは、サーマーン膨張の脅威の中で、ファールス地方に独立したブワイフ王朝であった。

[バグダード以東のシーア派化]
バグダード以東でも、以西と同様、シーア派化が進行する。
サーマーン朝の脅威の中から生まれたブワイフ朝は、以東のシーア派化を担うだけでなく、バグダード入城を果たし、カリフをその支配下に置いた。
しかし、それでもアッバース朝を滅ぼすことまでは考えず、あくまでカリフから称号「アミールアルウマラー」をもらい、実権を掌握する様は、あたかも、日本の「幕藩体制」と酷似する。
ブワイフ朝に撃退されたサーマーン朝は、その後、国内の混乱を収拾することができず、やがて、ガズニ政権の独立を許し、残った領地をほとんどガズニ朝に奪われることになった。

[マグリブ地方のスンニ派復権]
バグダード以西では、ファーティマ朝、以東では、ブワイフ朝が成立したことで、イスラーム世界のシーア派化が窮まった。
しかし、やがて、その反動が、以東にも以西にも湧きおこる。
まず、以西においては、ムラービト朝が、スンニ派復権の担い手となる。
ファーティマ朝から離脱していったマグリブ地方の南から、ムラービト朝は、まさに「スンニ派復権」をめざして北上を始めた。
すでに諸小国の割拠状態であったマグリブからアンダルスまでを、アッという間に統一、さらには「黄金郷」として知られるガーナ王国をも併呑した。

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[マグリブ地方の停滞化]
ムラービト朝は、ムワッヒド朝へと引き継がれていったが、その統一も長くはつづかなかった。
統一瓦解後、その故地には諸小国が割拠した。
モロッコには、マリーン朝。
アルジェリアには、ザイヤーン朝。
チュニジアには、ハフス朝。
アンダルスには、ナスル朝。
やがて、オスマン帝国が、北アフリカ全域を再統一するまで、この停滞はつづくこととなるが、この時期にこそ、文化は高揚する。
ハフス朝からは、イヴン=ハルドゥーンが、マリーン朝からは、イヴン=バトゥータが現れている。

[バグダード以東のスンニ派復権]
以東における「スンニ派の復権」はセルジューク朝が担うこととなる。
中央アジアから興ったセルジューク朝は、カリフによる「ブワイフ討伐要請」を得たことで、「錦の御旗」を背景に、瞬く間にガズニを駆逐し、さらに西進して、バグダードに入城を果たした。
カリフより「スルタン」の称号を得、さらに、第2代スルタンの代になると、バグダードを拠点として、さらに、ビザンツ・ファーティマの領土に侵攻、これを蚕食していった。
内政では、宰相ニザーム=アル=ムルクが王朝の絶頂期を演出し、第3代マリク=シャーは「彼の仕事はただ狩りをすることのみ」と揶揄された。

[バグダード以東の停滞化]
短期間の内に、中央アジアから東地中海沿岸までを統一したセルジュークは、やはり、瞬く間に解体していく。
初代スルタン・トゥグリル=ベクが強調した「一族の結束」が破られたためだ。
初めは、王族同士で分裂。
小アジアにルーム=セルジューク朝。
シリアにシリア=セルジューク朝。
イラクにイラク=セルジューク朝。
イランにケルマン=セルジューク朝。
さらに、次の段階で、アタベク政権へと細分化していく。
コラズム帝国が、各地のアタベク政権を糾合し、再統一の機運が生まれたが、モンゴルの侵攻によって、すべてがモンゴルに呑みこまれることとなった。

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[エジプトのスンニ派復権]
エジプトはもっともスンニ派の復権が遅れた地方であった。
シーア派・ファーティマ朝が、この豊潤で封鎖地形のエジプトを得て、長期政権を維持できたからである。
しかし、ファーティマ朝もまた、新しい時代の波に抗うことはできなかった。
シリア=セルジューク朝の故地を統一したザンギー朝が、ファーティマ朝の内紛に介入、これを滅ぼし、スンニ派のアイユーブ朝へと代わっていった。
しかし、そのアイユーブ朝の支配も、サラーフ=アッディーンの死後、長くつづかず、マムルーク朝に移っていった。
やがて、オスマン帝国がこの地を支配する日まで…。