トップページ受講案内テキスト案内会員案内お申し込みカートの中お問い合わせ
サイト紹介サイト詳細三国志劇場休憩室著作案内旺文社版その他
テキスト簡易紹介
テキスト誤植報告
テキスト索引
テキストもくじ

 

神野正史先生の
一般書籍紹介

 











! 

 

 

























! 

 

 
























! 

 

 























! 

 

 



















! 

 

 




























 

神野正史著者ページ

 

















 


おことわり

まだ公開講座の数は少ないですが、順次追加配本されていきますので、長い目でお見守りください。

講座内容のご紹介


第7回配本 辛亥革命と軍閥中國

[日露戦争の国際社会への影響]
日露戦争による日本の勝利は、全世界に激震を走らせた。
この戦争を境として、歴史は確実に「新時代」へと動き始めることとなる。
まず、アジアにおいては、これを契機として、日本を範とした近代化改革と独立運動が活性化していく。
日露戦争による「アジアの勝利」が、アジア諸国の人々に、ふたたび「誇り」を取り戻させ、戦う気力を取り戻させたのだ。
かたや、欧米列強諸国は、日本に一目を置くようになり、「桂タフト協定」「日仏協約」「日露協約」など、こぞって日本と対等条約を結び始めることになる。

[日韓併合への道@]
よもや日本がロシアに勝利するなど、夢にも思わなかった韓国は、日露戦争中、日韓協約違反を繰り返していた。
戦後、韓国に対し、協約違反のペナルティが科せられることになるのは当然であった。
それが第2次日韓協約である。
しかし、これに抵抗する高宗は、どっぷり「中華思想」に浸かりきっており、当時の国際情勢というものがまるで理解できない人物であった。
そのことが、やがて、取り返しのつかない大失態を演じてしまうことになり、祖国を亡国へと誘っていく。
無能な王が君臨したことが韓国の悲劇となってゆく。

[日韓併合への道A]
折しも、ヨーロッパでは「第2回ハーグ平和会議」が開催されていた。
高宗は、これに「密使を派遣する」、という愚挙に出てしまう。
国際会議の場で日本の非道≠訴えれば、日本は退かざるを得なくなると考えたのだ。
無知ほど恐ろしいものはない。
それは、ただ祖国を亡ぼすことになるだけであることに本人はまるで気がつかなかったのだ。
国際承認を受けている第2次日韓協約の非道≠訴えたところで、列強諸国がそれに耳を傾けるはずもなかった。
メンツをつぶされた日本は、第3次日韓協約を押しつけていくことになる。

お申込ページへ

[中国革命運動の胎動]
清朝でも、ジワジワと革命機運が胎動していた。
そして、革命気運の高まっていく契機は、つねに日本の躍進≠見せつけられたときであった。
日清戦争で日本ごとき≠ノ敗北すると、まずは孫文が立ち上がる。
このときは、まだまだ時期尚早の観は否めなかったが、北清事変で日本軍など(8ヶ国軍)が北京を蹂躙すると、急速に革命気運が高まり、ぞくぞくと各地に革命結社が生まれていった。
そして、日露戦争で日本の勝利が伝わると、各地の革命結社が集約し、「中国同盟会」が結成されるに至る。
その結成地は「東京」である。

[清朝最後の改革]
かようにして、「下からの改革」が着々と進行していく中、清朝も手をこまねいていたわけではなかった。
清朝も、すでに、北清事変を契機として「上からの改革」である光緒新政に着手してはいたが、それはまだまだ緩慢≠ネものであった。
そこに「日露戦争、日本勝利!」の報が届く。
もはや、日本の近代化が成功していることは疑う余地もない。
軍事改革・教育改革・官制改革、そして、憲法制定準備。
日本を範として、光緒新政の改革は、スピードアップが図られることになるが、すべてはすでに遅すぎたのだった。

[辛亥革命前夜]
1908年年末。
光緒帝が崩御し、
その翌日、西太后が死んだ。
新皇帝は、2歳10ヶ月の幼児。
摂政と内閣は無能と老人。
実際に滅び去るのは3年後だが、すでに、この時点において、清朝の命脈は絶たれていた、といってよかろう。
「幹線鉄道国有化宣言」は、そのキッカケにすぎない。
これにより、たちまち、四川で暴動が発生、これが辛亥革命へとつながっていくことになるのだが、まさか、これが清朝を亡ぼすことになろうとは、清朝はもちろん、暴動を起こした当の四川の人たちですら、想像していなかった。

お申込ページへ

[辛亥革命]
辛亥革命は起こった!
清朝側では、もはや軍隊も機能しなかったが、しかし、革命側もまた、準備不足の観は否めず、孫文不在の革命中枢は分裂の様相を呈していた。
どちらも手詰まり、といった状況の中、両者の間をうまく立ち回り、漁夫の利を得たのが、袁世凱であった。
彼は、新政府・中華民国とも、清朝政府とも裏取引を行い、中華民国の第2代臨時大総統の地位をもぎとる。
まさに、「革命を横取りした男」という表現が相応しかろう。
これから4年間にわたって、中国は「袁世凱時代」へと突入していく。

[袁世凱独裁への道]
主君であった清朝を裏切り、革命と中華民国を乗っ取り、臨時大総統の地位に就いた袁世凱。
彼は、孫文の理想である「民主中国」を実現するつもりなどサラサラなく、自己の権力基盤を強固なものとするべく策動する。
「そうはさせじ!」と革命側は「国民党」を結成し、総選挙に臨む。
結果は、国民党の圧倒的大勝利!
勝利に酔う宋教仁は、袁世凱の刺客の手に落ちる。
孫文は「即時討袁!」を叫ぶも、指導者を失った国民党は左右に分裂。
意思統一の図れない第二革命の失敗は目に見えていた。

[日露戦争後の日本]
日露戦争に勝利した日本であったが、ポーツマス条約では賠償金を取れたわけではなかったため、戦後、財政破綻に陥っていた。
日本国民に重税を課し、苛斂誅求を強いたとはいえ、それも焼け石に水≠ナあった。
日本に残された道は、日露戦争で手に入れた満州権益と韓国優先権から、新たな収益を産ませるより他なかったが、収益が上がるようになるためには莫大な投資を必要とした。
こうして、八方塞がりとなり、万策尽き果てた日本に「天祐」が起こる。
第1次世界大戦の勃発である。
日本は狂喜した。

お申込ページへ

[袁世凱即位]
第1次世界大戦の勃発とともに、日英同盟を口実として、日本は山東半島に出兵した。
あとは、これを既成事実として中国に承認させるだけである。
日本は、今回手に入れた山東権益に、日清戦争以来、中国から獲得してきた既得権益や、「希望条項」をも加えて、「対華二十一ヶ条」を要求した。
要求を突きつけられた袁世凱は、皇帝に即位したいばかりに、これを受諾する。
おのれの野心のために国を売る。
「売国奴」袁世凱の即位を、民衆が認めるわけはなかった。
第三革命の勃発である。

[袁世凱退位]
第三革命勃発当初、袁世凱は楽観的であった。
第二革命同様、馮国璋ら、部下の軍事力を以て、一気に弾圧するつもりであったのだ。
しかし、彼の思惑はハズレる。
なんと、股肱と頼む段祺瑞・馮国璋が動かないのだ。
革命軍の勢いは止まらず、彼は即位後、わずか3ヶ月にして退位。
さらに3ヶ月後には、失意のうちに死去する。
袁後も、袁世凱の後継者たる軍閥と、革命勢力との綱引きはつづく。
それは、「府院の争い」となって表面化した。

[軍閥時代への突入]
こうして、「府院の争い」は「護法戦争」へと発展していくことになる。
ひとたび「戦争」ということになれば、軍閥側も革命側も、一致団結して戦わねばならないはず。
しかし、軍閥側は、段祺瑞と馮国璋の確執が「和戦の争い」として表面化、統一戦線が張れない。
対する革命軍も、西南軍閥と孫文の確執がクーデタ騒動を引き起こしていた。
もはや、中国はバラバラであった。
そんな中、戦争中、いったん下野していた段祺瑞は、日本から「西原借款」を手に入れ、中国の支配権を掌握することに成功した。

お申込ページへ

[軍閥政府への反動]
辛亥革命は成功した……はずであった。
目的どおり、清朝は滅びた。
中華民国も生まれた。
しかし、中国はその後も「第二革命」「第三革命」「護法戦争」と戦乱がうちつづき、中国はひどくなる一方。
原因は何か。
すべては、中国人民自身が、専制を望み、民主主義に無理解だからである。
 そう考えた者たちが、文学作品を通じての啓蒙活動に突入する。
これが「新文化運動」である。
しかし、洋の東西を問わず、このような啓蒙活動が成功した例しはない。

[五・四運動]
第1次世界大戦は終わった。
中国は、「公理が強権に勝利した」と熱狂し、対華二十一ヶ条が取り消されると信じた。
しかし、それが実現しないことがわかると、その失望がやがて怒りに変わるのに時間は要らなかった。
それが「五・四運動」である。
収まらぬ暴動騒ぎに、ついに軍閥政権も屈してしまうと、これに敏感に反応したのは、ソ連であった。
レーニンは「カラハン宣言」という甘言を以て中国に接近し、中国をソ連の隷属化に置くことを試みた。
これに見事に騙された中国人が「中国共産党」を結成することになる。

[ワシントン体制@]
大戦後のパリ講和会議は、イギリスによる「Pax Britanicaの死守」と、新興アメリカによる「Pax Americanaの実現」との鬩ぎあいでもあった。
結果、アメリカは「Pax Americanaの実現」に失敗するも、イギリスの「Pax Britanica」は、ヨーロッパに限定されることになった。
そこで、アメリカは、空白状態となった東アジア世界・太平洋地域における「Pax Americanaの実現」を目論む。
それが「ワシントン会議」である。
今、東アジア世界・太平洋地域における懸案は、日本である。
日本を封じ込めること。
そこにすべての努力が注がれた。

お申込ページへ

[ワシントン体制A]
日露戦争の海戦を契機として生まれた弩級戦艦は、世界を震撼させた。
世界中の戦艦は、建造中の最新鋭艦まですべて旧式の烙印を押されることとなったため、好むと好まざるとに関わらず、列強諸国は死に物狂いで弩級戦艦の建造に突入せざるを得なかった。
これを機に、果てしない顕官競争が始まる。
日本もまた「八八艦隊」の建造を計画するも、それは、「Pax Americanaの実現」を目論むアメリカにとって脅威であった。
日本の海軍封じ込め計画は九国条約として結実する。

[国共合作への模索]
五・四運動の成功は、各方面に多大な影響を及ぼした。
左においては、コミンテルンの指導の下、「中国共産党」が結成され、右においては、孫文を中心として、「中国国民党」が結成された。
しかし、両党はそれぞれに問題を抱えていた。
共産党はあまりにも組織が小さすぎ、国民党は大衆運動の煽動ノウハウがなかった。
強大な軍閥政権を倒すためには、両者の結束が不可欠であったが、所詮、両党は水と油=B
乳化剤の役割を演じたのは、コミンテルンであった。

[軍閥政府の権力闘争]
共産党と国民党が生まれ、そして、急接近していたちょうどそのころ、北京政府の軍閥たちは、ただただ不毛な権力闘争に明け暮れていた。
馮国璋亡き後の直隷派を率いる曹?と、安徽派の段祺瑞の戦い、「安直戦争」が1920年。
段祺瑞の失脚後の、北京政府主導権を争った、直隷派・曹?と奉天派・張作霖の戦い、「第1次奉直戦争」が22年、「第2次」が24年。
まさに革命勢力が育ちつつあるさなかにおける、北京政府の内ゲバの連続は、すでに軍閥政権の命脈が尽きていることを象徴していると言ってよいだろう。

お申込ページへ

[国共合作]
軍閥が第2次奉直戦争で凌ぎを削っている1924年、「中国国民党第1次全国代表大会」が開催された。
孫文は、「軍閥を以て軍閥を制す」という理念を改め、「国共合作」を高らかに宣言する。
「連ソ・容共・扶助工農」をスローガンに、国民革命軍の育成に力が注がれ、広東政府は、「軍政府」から「国民政府」に生まれ変わろうとしていた。
しかし、いいことばかりではない。
共産党の「陰謀」は着実に実行され、国民党は、はやくも右派と左派の亀裂を生じはじめていた。
それも、孫文が生きている間は表面化することはなかったが……

[孫文から蒋介石へ]
国共合作、唯一の拠り所であった孫文は、神戸で「大アジア主義演説」をしたあと、肝臓ガンに斃れ、北京に客死した。
「革命未だ成功せず。同志、なお須く努力すべし。」
孫文亡き後、国共合作の亀裂は、一気に表面化する。
まずは、国民党左派の領袖・廖仲トが右派急進派により暗殺され、右派領袖の蒋介石は、中山艦事件を引き起こした。
命の危険を感じた国民政府主席の汪兆銘は、フランスへ逃亡。
もはや、国共合作の崩壊は、時間の問題となっていった。

[第1次北伐]
ついに北伐が開始された。
軍部を押さえる右派(蒋介石)と、政治部を押さえる左派の対立を内在したまま、国民党軍は北上する。
北伐途上、呉佩孚を倒した左派勢力は、ただちに国民政府の首都を武漢に遷すことを宣言、はやくも左右の対立が表面化する。
右派領袖の蒋介石は、そのまま上海に向かうも、彼が上海に着いたときには、上海もまた、すでに共産党の手に落ちていた。
北伐で軍功を挙げ、権力基盤を確立するはずが、蒋介石は一気に窮地に陥った。
もはや蒋に残された道は……

お申込ページへ

[第2次北伐]
西から「武漢政府」、東から「上海臨時特別市政府」に挟まれ、孤立化した蒋介石。
しかし、彼の元に、反共勢力(浙江財閥、地主、米英)がやってきて、支援を申し出てきて、彼に決断を迫る。
上海クーデタ。
イチかバチか、伸るか反るか、Dead or Alive のクーデタは見事成功!
共産党勢力は一気に減退し、寧漢の合流は果たされ、国民党の権力は蒋介石の下に集中した。
あとは、北伐を完成させるのみである。第2次北伐を妨害すべく、日本が山東出兵をかけるも、これを済南で躱し、北京に肉薄した。

[中華民国再統一の達成]
南から蒋介石軍、西から閻錫山・馮玉祥軍と、三方から包囲された張作霖は危機に陥った。
日本政府は、いったん奉天に退いて再起を促すも、関東軍は、政府の意向を無視して、彼を爆殺してしまう。
奉天事件。
「ジャマ者は消せ」式の、短絡思考による愚行が、どのような国際的影響を及ぼすのか、関東軍にはまったく理解できていなかった。
これを契機として、関東軍の暴走が始まり、政府もこれを抑えること叶わず、好むと好まざるとに関わらず、日本はドロ沼の戦争へと驀進していくことになってゆく。