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神野正史先生の
一般書籍紹介

 











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神野正史著者ページ

 

















 


おことわり

まだ公開講座の数は少ないですが、順次追加配本されていきますので、長い目でお見守りください。

講座内容のご紹介


第8回配本 イスラーム鼎立時代

[オスマン君侯国の成立]
ヨーロッパ・アジア・アフリカの3大陸にまたがり大帝国を打ち立てたオスマン帝国。
600年以上にわたって君臨しつづけたこの大帝国はどのようにして生まれたのかを探る。
中央アジアから戦禍を逃れ、流れ流れてアナトリア半島にやってきたオスマン家も、初めは、半島辺境に割拠する小さな小さな地方政権にすぎなかった。
しかし、時代はオスマンに味方した。
モンゴルの脅威はここにも及び、主君であるルームセルジュークが衰亡していったのだ。世は戦国時代に入り、オスマン勃興のチャンスが訪れた。

[第2代オルハン1世]
時代は、始祖オスマン1世から、第2代オルハン1世の時代に移り変わる。
彼の時代にオスマン帝国領は一気に数倍化し、アナトリア半島の北西部をほぼ手中下に置くことに成功した。
しかし、領土が急速に拡大したということは、これまでの「辺境の土侯」時代の統治システムのままでは国家運営もままならない。
オルハン1世は、好むと好まざるとに関わらず、旧い制度を大改革し、「帝国」に生まれ変わらなければならない必要に迫られた。
彼の時代、官僚制の整備が行われたが、常備軍の創設は次代に持ち越されることになった。

[第3代ムラート1世]
とき、第3代ムラート1世の時代。
アドリアノープルでビザンツを破り、ソフィアでブルガリアを破り、コソヴォポリエでセルビアを破り、オスマンはついに広大なヨーロッパの地を帝国領に組み入れた。
オスマンは、新しく手に入れたキリスト教圏から子供を軍人奴隷として徴用、これを洗脳教育を施し、新しく常備軍団を創設した。
このときに創設された常備軍、イェニチェリこそが、これからオスマンの繁栄を支えていくことになる。
もっとも、やがてはこのイェニチェリこそが帝国のガンとなっていくのだが…。

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[ムラートからバヤジットへ]
キリスト教圏を支配下に置いたことは、単なる軍事改革に留まることなく、抜本的な制度改革の必要にも迫られることになる。
中央には4人の長官による御前会議、地方は州県制、軍部は常備軍、全国にティマール制が敷かれた。
しかし、そのムラートはコソヴォポリエで謀殺され、時代は、バヤジットに代わる。
バヤジットの最初の仕事は、兄弟たちの謀殺、つぎに先帝急死により動揺した帝国を安定させることであった。
即位早々、新帝の度量が試されることになったが、「雷帝」の渾名どおり、電光石火、国内を安定させる。

[第4代バヤジット1世]
ムラート1世の暗殺直後のオスマンの混乱をつぎつぎと平定していったバヤジット1世であったが、彼に安堵する暇は与えられなかった。
オスマン混乱を知ったヨーロッパ諸国が、これに乗じてニコポリスに結集した。
ハンガリー・ワラキアを中心とし、ヴェネツィア・ジェノヴァ・神聖ローマ帝国・フランス・イギリス・ポーランドという、ほとんど“全ヨーロッパ連合軍”ともいうべき軍がオスマンを迎え撃つ。
しかし、所詮烏合の衆は烏合の衆。
ブルゴーニュ公ジャン1世の暴走はニコポリス十字軍を潰走に追い込んでしまう。

[オスマン帝国一旦滅亡]
“全ヨーロッパ連合軍”ともいうべきニコポリス十字軍を撃破し、もはや向かうところ敵なし、我が世の春を謳歌していたバヤジット1世の下に、東の果ての王から使者が遣わされてきた。
その王の名は「チムール」。
「我チムールに従え」
ニコポリス後、コンスタンティノープル攻略に取りかかり、陥落寸前に追い込んでいたバヤジットは、急ぎ、その軍を東に向け、チムールを叩くために進撃した。
しかし、その結果は、予想外の大敗であった。
散り散りに分散したバヤジットの息子たちは帝国再興に尽力する。

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[第7代メフメト2世]
各地に散ったバヤジットの息子たちの中で勝ち残ったのは、三男のメフメトであった。
しかしながら、一度解体した帝国を復興するため、その後、2代にわたって国内の安定に力が注がれ、オスマンが再び対外戦争に目を向けることができるようになったのは、ようやくメフメト2世の代になってからであった。
彼は、いよいよ、バヤジット1世以来、頓挫していた「コンスタンティノープル攻略」に取りかかる。
1000年の歴史を誇るコンスタンティノープル、難攻不落の大要塞はこうした時代背景の中で、その歴史に幕を閉じることになる。

[バルカン・アナトリアの統一]
夢にまでみたコンスタンティノープルを墜とし、ここに遷都したオスマンは、対外的には、そのまま、バルカン半島とアナトリア半島を統一することに成功した。
国内では、大権を握っていたチャンダルル家を大宰相の地位から追い、定見の強化も達した。
第9代セリム1世の代になると、いよいよ“不敗神話”を誇っていたサファヴィー朝と対決した。
チャルディランの戦いである。
しかし、圧倒的へ威力差に加え、近代的砲兵部隊を持つオスマンにとって、中世的騎馬軍のサファヴィーなど敵ではなかった。

[第9代セリム1世]
15世紀初頭、西アジアでは、オスマン・サファヴィー・マムルークの三国鼎立の様相を呈し始めていた。
しかし、この鼎立はすぐに崩れる。
アフリカを乗り越え、インドと直接交易に臨んだポルトガルに敗れたマムルークが、財政悪化に陥ると、そのタイミングで、オスマン・セリム1世が大挙南下してきたのである。
何もなき野を征くがごとく、オスマンはカイロに入城、マムルーク朝は260年の歴史に幕を閉じた。
これにより、オスマンは、東地中海を内海とし、カリフを取り込み、陸海交易路を独占し、三大陸を股にかけた大帝国となっていった。

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[第10代スレイマン1世@]
マムルークを併呑したオスマンは、先帝セリム1世が取りこぼしていたサファヴィーの征服に乗り出した。
サファヴィー朝は、帝都タブリーズを棄ててまでオスマンとの正面対決を避け、“焦土作戦”をとる。
これには、大軍を率いたスレイマンは手を焼いた。
打って変わって、バルカン半島では、快進撃、ハンガリー王国のほとんどを併呑し、ウィーンを包囲するまでに至ったが、今度は“冬将軍”の到来で撤退を余儀なくされた。
どんな屈強な大軍も“焦土作戦”と“冬将軍”に破れる。
これはナポレオンを思い起こさせる。

[第10代スレイマン1世A]
陸戦においては、ほとんど無敵を誇ったオスマン軍であったが、海軍は弱体であった。
しかし、大海賊ハイレディンがオスマンに帰属したことで、短期間のうちに、急速に強化されることになる。
陸で敗退しつづけたヨーロッパは、海戦に臨み、プレヴェザに対峙したが、これもオスマン海軍を前に、大敗してしまう。
こうして、ヨーロッパ文化圏に大きく食いこんだオスマンは、好むと好まざるとに関わらず、ヨーロッパの国際関係に組み込まれていくことになった。
そして、それがやがてオスマンを苦しめていくことになる。

[チムール帝国の成立]
14世紀、ユーラシア大陸では、モンゴル帝国の分解化が加速していた。
モンゴル帝国は、やがて四汗国に、四汗国もそれぞれ小分国に…。
中央アジアに成立したチャガタイ汗国もまた例外ではなかった。
まず、東西に分かれ、その東西チャガタイ汗国も分裂状態に陥る。
そういう“戦国時代”の様相を呈していた時代に頭角を顕したのが、チムールである。
彼は北条早雲の「火牛の計」を彷彿とさせる詭計を用いて、まずケシュを墜とし、さらにここを基盤としてサマルカンドを抑えた。
チムール帝国の成立である。

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[チムール三年戦役]
マーワラーアンナフルを抑えたチムールは、ただちに四方に軍を送り込む。
まず、東にモグーリスタン汗国、西にスーフィー朝、北にキプチャク汗国をつぎつぎと服属させる。
後顧の憂いを断ったチムールは、いよいよ南征に入る。
三年におよぶ大遠征(三年戦役)は、連戦連勝、チムールをして「世界の大部分を征服した」と言わしめるほどの大戦果を収めた。
しかし、快進撃の中、本国からの伝令がチムールを動揺させた。
「本国がトクタミシュにより襲撃!
陥落寸前!」
チムールは急遽帰国することに。

[チムール五年戦役]
「恩を仇で返」されたチムール。
怒り心頭のチムールは、20万もの大軍を以て、トクタミシュ征伐に繰り出した。
見事、トクタミシュを撃破したチムールは、トクタミシュの裏切りによりご破算となっていた西アジア征服に、ふたたび乗り出した。
「三年戦役」での征服地をふたたび支配下に置き、再起を図るトクタミシュを倒すのに、5年を要したため、これを「五年戦役」という。
しかし、これによって、チムール帝国は、オスマン・マムルークと国境を接することになり、両国との対決は避けられぬものとなった。

[チムール七年戦役]
チムールの三男ミーラン=シャーが謀反!
これがキッカケとなり、チムールは「七年戦役」が始まる。
チムールは、まず、マムルークを撃破し、ジャライル朝を滅ぼした。
最後に残ったのがオスマン。
チムールはまず使者を立て、「我チムールに従え」と言わしめるも、対するオスマン・バヤジット1世も、ニコポリスにヨーロッパ連合軍を破った直後。
素直にこれに従うはずもなかった。
ここに、両雄相まみえる「アンカラの戦い」が勃発する。
無敵を誇る両帝国の衝突!
歴史はどちらに軍配を上げるのか!

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[チムール没後の内訌]
チムールの最終目標、明朝征伐に向かう途上、チムールは逝った。
偉大な君主により打ち立てられた帝国は、その死とともに混乱に陥るのは世の必然。
チムール帝国はその典型であったと言えよう。
この混乱を収束させたのが、第3代シャー=ルーフ。
国内をまとめることに成功した彼は、ただちにチムール没後離反していた黒羊朝の征伐に取りかかる。
しかし、すでにチムール帝国には、初代のころの勢いなく、黒羊朝を3度攻めて3度失敗。
シャー=ルーフは裏工作に転ずる。

[チムール帝国の衰微]
シャー=ルーフの晩年から、帝国は再び動揺する。
帝国は、ヘラート政権とサマルカンド政権に分裂し、皇帝はつぎつぎと兄弟・親族に暗殺・反逆・反乱を起こされ、1〜2年の在位で廃立される。
北からは、シャイバニー朝、西からは黒羊朝の圧迫を受け、まさに内憂外患の様相を呈した。
このまま亡びの道を驀進するかと思いきや、第7代アブー=サイードの代に中興に至る。
昔日の面影こそなくなったが、久方ぶりにサマルカンド・ヘラート両政権が統一され、対外的にも、シャイバニー朝・黒羊朝と和解した。

[チムール帝国末期]
1460年代後半、西アジアから中央アジアは、風雲急を告げる。
まず西アジアにおいては、67年に、黒羊朝ジャハーン=シャーが謀殺され、黒羊朝から白羊朝に代わる。
その翌年、中央アジアでは、アブル=ハイルが戦死し、シャイバニー朝が滅亡、混乱に入り、
さらにその翌年、チムール帝国では、アブーサイードが戦死し、スルタン=アフマドに代わり、帝国はふたたび、サマルカンド政権とヘラート政権に分裂してしまう。
しかし、3帝国がほぼ同時に混乱に入ったため、奇妙な安定期が訪れることになった。

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[サファヴィー朝の成立]
白羊朝と黒羊朝が対立する中、頭角を顕してきたのが、新興教団のサファヴィーであった。
サファヴィー教団は、白羊朝の政略結婚を繰り返し、やがて、白羊朝も滅ぼして、王朝を建設する。
皇帝(教主)はマフディー(救世主)とされ、宗教的熱狂と結束により、帝国初期には破竹の勢いであった。
イスラーム帝国の初期がそうであったように。
これに挑戦してきたのが、不死鳥のごとく復興し、チムールを滅ぼして南下してきたシャイバニー朝であった。
無敵を誇った両国はメルヴに対決、サファヴィー勝利のうちに決した。

[サファヴィー朝試練と絶頂]
建国10年、“不敗神話”を誇ったサファヴィーも、オスマンの挑戦の前に、チャルディランに散る。
帝国を継いだタフマースブは、東にあっては、シャイバニーの挑戦をことごとく排除するも、西においては、圧倒的軍事力を有するオスマン相手にジリ貧を強いられた。
しかし、第5代アッバース1世の代になり、帝国は絶頂期に入る。
オスマン軍を模倣した常備軍を創建し、西(vsオスマン)に、東(vsボハラ汗国)に、南(vsポルトガル)に軍事的成果を上げ、帝都イスファハンは「世界の半分」といわれるほど繁栄を窮めることになる。

[イスラームの北インド膨張]
初めて本格的にインドに侵入してきたのはガズニ朝であったが、12世紀、これもゴール朝に代わった。
ゴール朝は、ガズニ旧領に留まることなく、そのままガンジス河畔に侵略し、イスラーム王朝として初めて、北インドを制圧した。
しかし、短期間のうちに広大な領土を得た国は、ほぼ短期間のうちに崩壊していく。
ゴール朝も例外ではなかった。
帝国の立役者・第6代ギヤース=ウッディーン=ムハンマドが急死したことで、弟ムハンマド=ゴーリーが継ぐことになるが、これが帝国崩壊の序曲であった。

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[デリー=サルタナット隆盛]
第7代ムハンマド=ゴーリーが急死したことで、ゴール朝は崩壊した。
インド経営を任されていたアイバックは、デリーを都に自立を果たす。
これがデリー=サルタナッ

ト最初の王朝、奴隷王朝である。
彼が即位した年1206年は、チンギスハンがモンゴル帝国を創建した年でもあり、まもなくインドはモンゴルの侵略に苦しめられることになる。
モンゴル軍に対応するため肥大化した軍隊。この軍事力を支えるためには、否応なく膨張戦争をしなければならなかった。こうしてハルジー朝の代にはインド亜大陸のほとんどを征服することになった。

[デリー=サルタナット衰勢]
不連続の連続で際限なくつづくモンゴル軍のインド侵攻。
これに対応するための軍事力は膨らむ一方で、トゥグルク朝の時代には、なんと60万にまで膨張してしまう。
身分不相応な、この膨大な軍事支出が、デリー=サルタナット歴代王朝を苦しめていく。
やがて、モンゴル帝国の再興を謳うチムールがインドに攻め入り、その将軍ヒズル=ハーンが総督としてパンジャブに駐屯。
チムールの死後、ヒズル=ハーンは、サイイド朝を創建し、ついにモンゴルの系統がインドに王朝を立てることになった。

[ムガール帝国の成立]
デリー=サルタナット最後の王朝ロディー朝が北インドにあったころ、アフガンではバーブルが雌伏していた。
「チムール帝国の復興」を謳うバーブルは、何度となくサマルカンドを攻めたものの、ことごとく失敗。
そこで、方針を180度変え、インド侵攻に取りかかると、たちまち北インドの制圧に成功する。
しかし、彼が艱難辛苦の末、打ち立てたムガール帝国も、子のフマーユーンがたちまち滅ぼしてしまう。
帝国の滅亡により、サファヴィー朝に亡命したフマーユーンは、タフマースブから軍を借り、帝国の復興に成功したのだったが…。

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[ムガール帝国の確立]
ムガール帝国は復興した!
「さあ、これから!」という矢先、まだ子供だった皇太子アクバルを残し、フマーユーンは急死する。
にわかに緊迫化した帝国に反旗を翻したスール朝であったが、アクバルはこれを撃破!
帝国の危機を脱すると、つぎつぎと異教徒優遇政策を打ち出し、国内の安定化を図った。
国内の安定に成功したアクバルが、つぎに目指すは、対外膨張戦争であった。
彼の治世のほとんどは戦争に費やされ、北インドを完全に統一することに成功した。

[ムガール帝国の国内情勢]
帝国の安定化のためには、国家体制の整備が不可欠である。
ムガール帝国の断絶時代、北インドを制覇していたシェール=シャーが整備していたシステムを基盤に、アクバルはこれを発展させた。
「シェール=シャーなくしてアクバルなし」といわれる所以である。
アクバル没後は、4代ジャハーン=ギール、5代シャー=ジャハーンと、皇后・外戚が猛威をふるった。
このような状況の場合、外戚を葬り去ることに成功すれば「繁栄」が、失敗すれば「滅亡」が待っているが、ムガールはこの排除に成功、第6代アウラングゼーブ帝の絶頂期を迎える。