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神野正史先生の
一般書籍紹介

 











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神野正史著者ページ

 

















 


おことわり

まだ公開講座の数は少ないですが、順次追加配本されていきますので、長い目でお見守りください。

講座内容のご紹介


第9回配本 アメリカ建国史

[アメリカとヨーロッパの接触]
(講義時間 43分53秒)
平和と友好を愛するインディアンの悲劇は、突如として、海の向こうからやってきた「悪魔」によってもたらされた。
インディアンは知らなかった。
はるか海の向こう、ヨーロッパには、自分たちだけが「もっともすぐれた人間」であり、「もっともすぐれた文化」「唯一の正しい宗教」をもつと盲信し、「肌の色で人を差別する」という愚劣きわまりない思想を持った民族が住んでいたということを。
この「野蛮人」は、アジアとの直接交易を望み、アジアを目指して海に乗り出したとき、たまたまアメリカ大陸を「発見」したのだ。

[ヴァージニア植民地建設@]
(講義時間 32分01秒)
北米における植民地建設は、エリザベス女王のころから始まった。
女王の「太鼓持ち」だったウォルター・ローリー卿が、植民地建設に乗り出したものの、これは無惨な失敗に終わる。
次王ジェームズ1世の御代にいたり、ふたたび植民地建設に取りかかったものの、またしても、たちまち不労・飢餓・疫病などにより絶滅の危機に瀕する。
しかし、インディアンは、彼らに食料と農業を教え、窮地を救う。
ポカホンタスの「神話」もこの過程の中で生まれた。

[ヴァージニア植民地建設A]
(講義時間 23分09秒)
イギリス人にとって、インディアンは文字通り「命の恩人」であった。
犬畜生ですら、「3日受けた恩は一生忘れぬ」という。
この「太恩」に対し、イギリス人は「誘拐」と「脅迫」と「収奪」と「虐殺」と「駆逐」いう蛮行をもって報いた。
ポカホンタスを誘拐し、ようやくタバコ産業が軌道に乗ってくると、つぎに彼らは、円滑なタバコ農園の運営のため、「農園での労働力」として黒人を、「家の中での労働力と性欲処理」として女性を「輸入」し始めた。
それは、植民地議会が開かれたその年、1619年のことであった。

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[ニューイングランド植民地建設@]
(講義時間 1時間04分05秒)
イギリス本国では、テューダー王朝の下、国教会が生まれていた。
国教会は、カトリックとカルヴァン派の間を右往左往し、その過程の中で、カルヴァン派は「分離派」と「非分離派」に分裂する。
非分離派は、国教会の purify に望みをかけ、分離派は海の向こうの新天地に望みをかける。
こうして、分離派を中心として、プリマス港を出港した「メイフラワー号」は、ニューイングランド植民地の建設に着手する。
しかし、彼らも、その蛮行ぶりはヴァージニアと同じであった。

[ニューイングランド植民地建設A]
(講義時間 28分20秒)
本国で国教会の purify に尽力した「非分離派」であったが、それは挫折を繰り返した。
そんな折、「分離派」の植民(インディアンの殺戮と駆逐)が成功している方が届けられる。
こうした中、「我々も彼らにつづけ!」とばかり、ぞくぞくと非分離派も新大陸を目指す。
いわゆる「ピューリタン・エクソダス」である。
こうして生まれたニューイングランドは、やがて「マサチュセッツ」「ロードアイランド」「コネチカット」「ニューハンプシャー」の4邦に分裂する。

[大西洋岸中部植民地建設]
(講義時間 31分08秒)
ヴァージニアとニューイングランドに挟まれた地区がまだ未着手の地として取り残されていた。これに目を付けたオランダはここに「ニューネーデルラント」を建設する。
しかし、根っからの「商人気質」の彼らは、貿易に力を注ぐあまり、植民地経営を疎かにしてしまう。
結果、ヴァージニアとニューイングランドをひとつに繋げるべく、イギリスに挑まれる(第2次英蘭戦争)や、オランダはほとんど抵抗らしい抵抗もできぬまま、この地を明け渡す。
こうしてこの地はニューヨークと名づけられた。

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[南部植民地建設]
(講義時間 17分13秒)
1660年、イギリス本国で「王政復古」が起こると、チャールズ2世は、その復位に尽力した功臣に、褒美としてヴァージニアの南の地を切り離してこれを与えた。
これが現在の「ノースカロライナ州」と「サウスカロライナ州」である。
また、ジョージ2世の時代になると、東海岸植民地の南端が、ルイジアナのフランス勢力、フロリダのスペイン勢力と三ッ巴状態となったため、これに備えるための防衛旗地として「ジョージア州」が建設された。
これを以て、「13州」が出揃うことになる。

[フランス脅威下の植民地政策]
(講義時間 24分26秒)
「13州」が出揃うころと前後して、イギリス本国は、植民地に対して課税を始めました。
「13州」を建設・防衛するための度重なる戦争で国家財政が逼迫、その補填を植民地自身にまかなってもらおうと考えたためだ。
しかし、植民地人がこれに猛反発すると、背後のフランス勢力の介入を懼れた本国は、あえて脱税を見逃した。
これを「有益なる怠慢」と言う。
やはり、フランス勢力をなんとかしなければラチがあかない。
そんな折、たった1人の小心者がしでかした「虐殺事件」がフレンチ&インディアン戦争を引き起こすことになる。

[イギリス植民地政策の転換]
(講義時間 25分39秒)
フレンチ&インディアン戦争はイギリス側の勝利のうちに終わった。
とうとうフランス勢力を北米から駆逐することに成功したのだ。
とはいえ、インディアンの抵抗はつづいていたため、イギリス本国は、極力彼らを刺激すまいと「国王宣言」を発し、植民知人がアレゲーニー山脈以西へ進出することを禁じた。
さらに、フランスなき今、「有益なる怠慢」を継続する理由はない。
砂糖法、印紙法と、立てつづけに新関税を導入していった。
これに対し、植民地人の怒りは募る。
「代表なくして課税なし!」とはこのころの植民地側のスローガンである。

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[植民地関係の冷却化]
(講義時間 39分21秒)
植民地人の抗議運動の前に、イギリス本国政府はいったん譲歩し、印紙法を撤廃、危機は去ったかに見えた。
しかし、本国政府は性懲りもなく、「タウンゼント諸法」を制定してきたのだ。
植民地人はふたたび猛反発、それはボストン虐殺事件へと発展すると、またしても本国が譲歩、「諸法」のほとんどを撤廃させられることになった。
それでも、本国政府は諦めない。
3度目、「茶法」を制定してきたのだ。
事ここに至り、植民地人は「実力行使」を決意する。それこそが、「ボストン茶会事件」である。もはや両者の衝突は不可避となりつつあった。

[独立戦争の勃発i]
(講義時間 19分04秒)
植民地人たちは、善後策を話し合うためフィラデルフィアに集まった。
いわゆる「第1次大陸会議」である。
ジョージア州を除く12州56名の代表が話し合ったがラチがあかない。
植民地側はいまだ「独立派」「中立派」「国王派」が入り乱れ、「独立」への統一的覚悟がなかったからだ。
しかし、そんな折、イギリス本国軍が動く。コンコードに集積されていた武器弾薬の没収するためだ。
これにより、とうとうイギリス本国政府と植民地軍との武力衝突が勃発した。これが「レキシントン=コンコードの戦」いである。

[独立戦争の拡大]
(講義時間 28分09秒)
レキシントン=コンコードの戦いは、そのまま「ボストン包囲戦」へと発展した。イギリス軍は甚大な被害を出してボストンから撤退を余儀なくされた。
ちょうどそのころ、フィラデルフィアでは、拡大する戦火に対応するため、「第2次大陸会議」が開催されていた。
独立派は『コモンセンス』というパンフレットを発行し、中立派の取り込みに成功したが、この期に及んでも「国王派」は、「本国との和解」に望みをかけていた。
しかし、それも、ジョージ3世に「反逆者」認定されるに及び、彼らもまた「独立」を支持していくことになる。

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[アメリカ独立宣言]
(講義時間 22分52秒)
独立の意志は固まった。
となれば、「独立宣言」が必要になる。
さっそく「独立宣言起草委員会」が結成され、宣言は創られた。
「すべての人は平等に創られている」
「生命・自由・幸福を追求する権利は不可侵の権利である」
パッと見、ごリッパなお題目がつづくため、ものごとの本質を見極める眼を持たない者たちがこれを賛美する。
しかし、これらのキレイ事の言葉の裏には、彼らのおぞましき差別意識が練り込められていることを忘れてはならない。ちなみに、福沢諭吉は、ただちにそれを看破している。

[独立戦争の転換点]
(講義時間 32分30秒)
イギリス本国は戦略を立てた。
植民地をコマらせるためには、ボストンとフィラデルフィアを分断させてやればよい。そのためには、ハドソン川を制圧することだ。
北からはバーゴイン将軍が川を下り、南からはハウ将軍が川を遡上、オールバニで合流するはずだった。
しかし、ハウ将軍はトレントンに敗走、バーゴイン将軍はサラトガに大敗し、作戦は見事な失敗に終わる。
この報を知ったフランスは、とうとう独立戦争に参戦を決意し、ロシアは武装中立同盟を提唱する。
戦局が一変しはじめたのだ。

[独立戦争の終結]
(講義時間 17分19秒)
イギリス本国軍は北部に敗れ(ボストン砲戦)、中部に敗れ(サラトガの戦い)たが、最後の南部戦線でもジリ貧がつづいていた。
転戦につぐ転戦と兵站確保の失敗で士気の衰えはいかんともし難かったのだ。
コーンウォリス将軍は、なんとかヨークタウンまで落ち延び、ここで補給を待つことにした。
しかし、それすらも失敗、ついに白旗を揚げることになり(ヨークタウンの戦い)、ようやく戦争は終結した。
パリ条約が締結され、イギリスはついに植民地の独立を承認する。

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[連合規約とその矛盾]
(講義時間 24分19秒)
独立は成った!
これからは、自立して国家を運営していかなければならないが、アメリカは独立早々、試練を受けることになる。
戦争中に制定した「連合規約」があまりにも「州権主義」に偏りすぎていて、国家運営上、支障をきたすようになっていたのだ。
独立直後、「シェイズの乱」という比較的小さな反乱が起きたのだが、そんなささいな反乱すら、鎮圧できないような弱体政府であったのだ。
これは一刻も早くなんとかせねば。
ただちに「憲法制定会議」が召集され、開催された。

[アメリカ合衆国憲法]
(講義時間 19分10秒)
憲法制定会議では、ニュージャージー案とヴァージニア案が激突!
激怒したA.ハミルトンは退場!
B.フランクリンが必死の仲裁!
…と難産に難産の末のようやくの制定であった。
こうして制定された「合衆国憲法」は、「連邦主義」「民主主義」「三権分立主義」という3つの主義が掲げられ、「近代憲法」を装おい、その点ばかりが強調されつづけている。
しかし、、その根底には、「肌の色による人種差別」という蛮行を厳然と追認、規定したもので、白人の蛮性を色濃く残すものであった。

[初代 G.ワシントン]
(講義時間 49分13秒)
初代大統領G.ワシントンには、「正直者」「優秀」「有徳者」「正義漢」などありとあらゆる賛辞が諡られる。
が、それは単なる「宣伝」にすぎない。
彼は、大統領として、なんら業績を上げていないだけでなく、「インディアンなどケダモノにすぎん!」と、何の罪もないインディアンに対して、残虐な殺戮の限りを尽くしている。
これを以て、彼を「思いやりのある方」「お優しい方」「正義漢」とする。
白人のいう「正義」と、我々の考える「正義」はまったく別の概念だということに気づかないと、彼らの本質を知ることは永久にできないだろう。

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[第2代 J.アダムズ]
(講義時間 27分26秒)
G.ワシントンが退陣すると、政府はたちまち「連邦党」と「リパブリカン」に分裂し、対立・抗争を始めた。
昨日まで同じ釜の飯を食らい、共に独立戦争を戦った戦友であることなど、すっかり忘れて。
「このバケモノめ!」「デブ野郎が!」
口汚い舌戦が繰り広げられ、第2代大統領にはJ.アダムズが就任した。
しかし、彼はなんら業績を上げることができなかったばかりか、憲法違反の弾圧法まで制定して、国民の信を失った。
次の選挙では、対抗馬のT.ジェファーソンが立つことになる。

[第3代 T.ジェファーソン]
(講義時間 29分43秒)
T.ジェファーソンが、大統領選挙に忙殺されていたちょうどそのころ、アメリカの頭を素通りして、「サンイルデフォンソ条約」が成立し、ミシシッピ以西のルイジアナがフランス領となってしまった。
これは憂慮される出来事である。
アメリカは西部の物産をミシシッピ川を利用して運んでいたからである。
ジェファーソンは大統領に就任すると、ただちにモンロー大使顧問を派遣し、フランスとの交渉が行われた。
こうして、ミシシッピ以西のルイジアナはアメリカ合衆国が購入することとなり、国土が2倍に拡大した。

[第4代 J.マディソン]
(講義時間 35分17秒)
ヨーロッパで、ナポレオン戦争が本格化すると、その影響はアメリカにも及んだ。
ナポレオンに対抗すべく、イギリスが「強制徴募」「自由拿捕令」をかけてきたのだ。
これにより、アメリカの貿易は冷え込み、北部の不満は募る。
時を同じうして、西部ではインディアンの不満が臨界点を越え「テクムセ戦争」として勃発!
インディアンの背後にイギリスの影を感じた西部は、「開戦!」を叫ぶ。
こうして、ついに、米英戦争は勃発した。

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[第5代 J.モンロー]
(講義時間 35分42秒)
米英戦争はアメリカの勝利で終わったが、戦後、貿易問題が表面化し、北部と南部の対立が深刻化する。
そんな折も折、北西部土地条例に基づき、新たに「ミズーリ」が州に昇格する運びとなった。
しかし、それはいかにもタイミングの悪いことであった。
北部と南部による「ミズーリ争奪合戦」が始まってしまったのだ。
内乱に発展する勢いを見せた対立を前に、モンロー大統領は妥協案を提示する。
それこそがあの有名な「ミズーリ協定」である。

[合衆国初期政党史]
(講義時間 22分05秒)
政党政治は、初めこそ、連邦党が優勢であったが、3代大統領以降は、歴代リパブリカン系大統領がつづいたため、連邦党はアッという間に没落していった。それは、第2代大統領の息子までがリパブリカンに鞍替えする有様で、第5代J.モンローの時代には、とうとう連邦党は消滅してしまった。
これにより、モンローの時代は「好感情の時代」と呼ばれ、一党独裁が行われたのだが、「外」に敵がいなくなれば、「内」に敵を求めるのが世の常である。
リパブリカンは、まもなく内部抗争の上、分裂を余儀なくされていく。

[合衆国50州成立時期資料]
(講義時間 02分15秒)
アメリカ合衆国は、北米東海岸にへばりつくように存在した13州から身を起こした。
それが今では、西海岸にまで到達し、北米をすっかり抑えたばかりか、アラスカも抑えてロシアに睨みをきかせ、ハワイをかすめ取って太平洋を見渡すまでになった。
その過程において、地図上、どのように拡大していったのであろうか?
歴史を学ぶときには、つねに「地図」を座右として学ぶのが基本中の基本である。
本ページでは、その資料となる地図を提供する。

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